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考え続けること、覚えておくこと ―1年目の3.11のために―
2012.03.11
立教大学総長 吉岡知哉
東日本大震災と原発災害から1年が経ちました。犠牲となられた方々の魂の平安を祈るとともに、今なお避難生活を強いられている方々に心よりのお見舞いを申し上げます。
2011年3月11日、私たちが生きている日常世界の基礎が文字通り音を立てて崩れました。多くの生命が失われ、水と大地と大気という、私たちが生きていくためのもっとも基本的な諸要素が破壊され汚染されてしまいました。日々の生活を支えていた経済や、社会を運営する政治の仕組みも至る所で綻びを露呈しています。
起きてしまったことの重大性はいうまでもありませんが、私たちがいまはっきりと認めなければならないことは、3月11日が曝け出した事柄が、それまで想像できなかったことでも、考えが及ばないことでもなかったということです。ほんの少し考えればわかることを私たちは考えようとしなかった。目の前にある問題を見ようとせず、知っている事柄を素知らぬ顔で見過ごしてきたのです。このことの深い反省を抜きにして、私たちは一歩も前に進むことはできません。
大学が大学として歴史的に存在し続けてこられたのは、そこが「考える」場所であるからに他なりません。ものごとをどこまで考えることができるか。その徹底性において大学は人間社会のなかに独自の位置を与えられてきたのです。大学の自由とは、何の制限もなく徹底的に考える自由のことです。大学での学習の目的が単なる知識の獲得ではなく、いかに考えるかという技法の習得にあるとされるのもそのためです。3月11日以降、大学の信用が揺らいだと言われるのは、大学が「考える」という最も基本的な働きを怠ったからに違いありません。
大学はまた記憶の集積の場でもあります。時代が求める効率性の中で放棄される記憶が大学の中では繰り返し呼び起こされ更新されていく。そのような運動が学問と呼ばれるのです。この国ではいま、あの日起こった出来事をあたかもなかったかのようにやり過ごそうとする雰囲気があたりを覆い始めています。その中にあって大学は、起きた出来事を人間の歴史として定着させる役割を負っていると言わなければなりません。
震災以後、私たちはこれまで人類が経験したことのない世界に足を踏み入れることになりました。この困難な状況の中で大学はいかにあるべきか。この問いに答えることは容易ではありませんが、それを真摯に問い続けることなくして、大学が自らの存在意義を見いだしえないことは確かです。立教大学は、大学としての使命を、持続的かつ徹底的に追求していきたいと考えています。
