英語科教員研修会
第二回「立教が目指す英語教育の一貫と連携 その理念と方法をさぐる?」
指定者質問1:天野(立教小学校)
質問1
僕は、日ごろ小さい子どもたちと、ぎゃあぎゃあやっているばかりで、例えばサビニョーンとか、 ハイムズとか、カミンズとか、すごいことを言っている人がいるんだなと思って、今日はたく さん本をアマゾンドットコムかなんかで購入して、勉強しようと思いました。ありがとうござ います。
実は、そんなふうで、僕は、日ごろからちゃんとそういうお勉強をしていないので、こういう 人の本を読めばいいよとか、そういうふうに答えていただいてもいいのですけれども、1つ質 問させていただきたいと思ったのは、いろいろなキーワードが出てきたと思うのですけれども、 autonomous learner とか、モチベーションを学習者にどう与えるかとか、エコロジカルな学習者観とか、あと小学校の レベルでの英語教育では、やはり異質なものに対する開かれた心をはぐくみたいとか、そのへんのところをcriticalthinking の力を伸ばすとか、そういうことがキーワードとして出てきたと思うのですが、そのようなところをやはりどう 評価していくかということですかね。そこが1つ、お聞きしておきたいかなと思っております。
「Education Through Music」などをやっておりまして、子どもたちと接しているわけですけれども、それとまた違う、 例えば通信簿という形がありますし、こちらが評価するわけですけれども、どのような形で、彼らをエンカレッジしたり、 評価したりするのか、もしくはそれが英語学習ということに対する親ですとか、社会的な期待とか、そういうものとどうマッ チしていくか、そして、それをどうこちらが表現していくか。 それがだんだん話が大きくなってしまうと、例えば、立教 の目指す英語で、すぐさま立教が付けた英語力というのは、社会的に客観的な検定試験などで測りたがるのが、一般の皆さ んの傾向としてあると思います。例えば英検2級くらい高校卒業時に持っていればいいとか。そうすると、そこらへんと立 教の目指すところはどう違うか。
そのへんのことも、僕らも考えなければいけないと思うのですけれども、そういう評価に関することで、ちょっと鳥飼先生 に、繰り返しになるところもあると思いますし、何かヒントになることを教えていただければと思いました。よろしくお願 いします。
それからもう一つ、評価というのは確かに難しいのですけれども、社会の一般の人たちも、文部科学省も、教育の成果を数値で知りたがるというのは、もちろんそうだと思うのですけれども、もしかすると学習者自体も、意外と自分は今どのくらい英語ができるのかと客観的に知りたいという欲求もあると思うのです。
そこで、青山さんは語彙のシラバスをつくっているでしょうけれども、何かそのような、立教スタンダードではないですけど、立教英語テストのようなことがあって、あなたは立教テストではこのくらいの点数というようなものがあると、学習者が落ち着けるようなものがあるかなと思うのです。
回答1
評価というのは、本当に難しくて、何を評価するか。つまり教育というのは、因果関係がはっきりしない場合が多くて、本来的にそんなに簡単に成果が出るものではないですよね。本来でしたら、やはり10年、20年先の、巣立っていった卒業生の姿を見て、ああ、われわれの教育が生きているなというようなことで励みにして、また教育に取り組むということが望ましいと私は思うのですけれども、今の日本の流れの中では、そんな悠長なことは言っていられないということで、どうしても数値での成果が求められるのが現状です。
これは、あるSELHiに指定された滋賀県の県立高校なのですけれども、私はそこに研修に呼ばれていって、講演するのみならず授業を見学して、コメントを出したりしました。
その高校が実はこの間、文部科学省から依頼されて、東京ビックサイトでの「セルハイ報告会」で模擬授業をしたのです。その際、模擬授業と同時に報告書も提出するということで相談があったのですけれども、文部科学省はなるべく数値で成果を出すように要請しているというのです。つまり英検何級で入学した生徒が、これをやって高3になったら、ここまでなりましたというような、それが何名中何名か、そういう数値を求めてきている。
でも、その高校の先生は、それはどうも自分は納得がいかないということで、その代わりに、自分たちの授業を見学してくれた先生たちのコメントを評価に代えたいということで、私はそのコメントを書きました。私だけでなく、あと二人ほど授業見学をした先生たちがコメントを書いて、それを、「これが私たちの受けた評価です」と、その会場に大きく張ったのです。
私がその中で書いたのは、英語教育に限らず、教育というものは、成果がすぐに数値として表れるものではない、という点です。私が特にその高校の取り組みを素晴らしいと思ったのは、ディベートを導入しているのだけれども、ディベートという英語教育の方法を採り入れながら、しかし、いきなりディベートという難しいことをさせるのではなくて、生徒の身の丈に合ったやり方で準備をさせて、そして生徒たちが自らの意志で、本当に自分の意見を言うように授業に工夫を凝らしていた。その為に相当な時間をかけて準備を積み重ねているのです。
実際の授業を見ましたので、そのことを書きました。この試みというのは、数値にして表すことはできないけれども、数値やスコアよりはるかに内容のある、そして将来的に生徒にとって大きな意味を持つ、優れた内容であるというコメントを書いたのです。
文部科学省の方針や社会的な期待は、どうしても目に見える数字ですので、なかなか難しいところですけれども、教育である以上、目に見えない成果についての思いをどこかに持っていたいなと思うわけです。それがなくなって、英検2級を取れた子の数だけを数えるようになったら、やはりそれは、教育という視点からは、ゆがんでいるのではないでしょうか。
そうは言いながらも、例えば国際経営学科では、何らかの方法で英語力を測っておいて、そして出たときどのようになっているかというのは、やはり記録として残しておくことになるでしょう。それは4年後にGPの報告書を出すときに、出さざるを得ないのだろうと考えています。
このごろ文部科学省は「フォローアップ」ということを重視していて、必ず詳細な報告書の提出を求めます。その中に「何となく上手になったみたいです」というのでは駄目なのですね。やはり「このように」という、具体的な記述が必要になります。そうすると、やはりどうしても、ある程度は数字で出さざるを得ないということになります。
でも、先ほどから長々とお話ししているように、コミュニケーションの図り方というのは非常に難しくて、それだけTOEFLだって苦労しているわけです。コンピューターテストを導入したり、今度はスピーキングテストを始めたり、TOEFL自体が大きく変わろうとしています。
そういう意味では、人間の能力を測ることはそんなに簡単なことではない。コミュニケーション能力をどのように評価するかということについて、ヤングという研究者がまとめたテスティングに関する本がありますので、それをお読みになるといろいろな例が出ていて参考になるかと思います。(Young, R. & He, A.W. (Eds.) (1998). Talking and testing. Amsterdam/Philadelphia: John Benjamins.)
その中には、例えば欧米では今、OPIというOral Proficiencyを測るテストが一応、一番評価を受けているのですけれども、それすらも問題なくはない。つまりOPIというのは面接で測っていって、それを面接官が評価します。
けれども、コミュニケーションという観点から考えると、実は面接というのは、異様な場なわけです。面接自体、インタビュー自体が人工的な不自然な状況です。質問する方は試験官という権力を持った人間であり、この人は何を質問するかということを知っています。一方、受験者は何を質問されるかわからないで来ていて、しかもこの受験者は、相手が自分についての判定を下す力を持っている人間だということをよく分かっている。自分の運命を左右する人間だということを分かっている。そういういびつな、不自然な場で測ったものが、authenticな場におけるコミュニケーションと、どのように相関するのか、しないのかという問題も出てきています。ということで、評価という問題は一筋縄ではいかないという、お答えになっているかどうか分かりませんが、一応、このへんで。
スタンダードのことは面白いですね。青山学院のまねをするのでは芸がないので、一ひねりした方がいいでしょうけれども、何かそういう立教の各段階で、ある 1つのことについて見ていくというのは、大変面白いですね。そういうのをこういう集まりで考えていかれたら、非常に良いと思います。 語彙に着目したのは、なかなかですね。語彙というのは、目に見えやすいし、設定しやすいし、頑張りがすぐ結果に出ますよね。頑張って覚えれば、それはすぐに結果として出るから、例えば話すということよりは、語彙の方が、やりやすい、学びやすい、判定しやすい。そして必要という意味では、ことに今の学生は語彙力が落ちてきていますから、なかなかいいところに目を付けたなと思います。でも、それに負けない何かを立教も考えたいですね。 学習者が何らかのよりどころを求めて達成感を持ちたいと思っているというのは本当で、動機付けの研究というのもいろいろあるのですけれども、その中で、 1つの方法として、達成可能な目標を与えることによって、達成感を持つ。その達成感が、次の動機付けのばねになっていくというのは、ありえることです。 最初にあまり高い目標値を設定して、精神論で「思いきり頑張れ」のようなことを言っても、やはり駄目なわけです。もう少し、自分でもできるかな、というくらいの現実的な目標を設定して、そして達成したときの喜び。「ああ、自分でもできるんだ、できたんだ」というような。それがあると理想的でしょうね。それを各段階で作っていく。新座高校では、スピーチコンテストをやっていらっしゃるということですけれども、例えばそういうことですよね。それはあると思います。 埼玉県のある県立高校で、高校3年生全員に英語のスピーチをやらせて卒業させるという試みをやっている所があって、それは新座のように1年、2年と段階的に進めていくのではなく、3年生全員がスピーチをして卒業するのです。 なぜ全員にさせるのか、聞きましたら、その高校では、全員が大学に行くわけではなく、中には高校を出て就職する生徒もいる。そういうことを考えると、高校の最後の学年で、自分の言いたいことを3分程度にせよ、スピーチを皆の前でやって、英語でやってのけたという達成感を味わわせて、その達成感を持って社会に出て行ってほしい、と担当の先生がおっしゃっていました。そういう達成感を体験する場をつくるというのも大事かもしれませんね。
指定者質問2:小澤(立教池袋中学校・高等学校)
質問1
特に青山では、先ほども出ましたが、語彙を強調したプログラムということで、立教ではもう少し広い視野に立ってということが、非常にうれしいお言葉に聞こえました。
では、質問させていただきますが、大きく2つありまして、2つともSecond Language Acquisitionのoverall frameworkと関係しているかと思うのですが、1つは、教師側から見た場合ということと、もう1つは生徒の方から見た場合ということでございます。
今のお話を伺っておりまして、Focus on Formを取り入れたcontent-basedな授業をデザインしていくということであったと思うのですけれども、そうしますと、小学校も含めましてわれわれ中高の教師は、やはりカリキュラムのデザイナー、カリキュラムを下請けみたいにただやっていくということではなくて、デザインしていく立場になるといった見方が必要かと思いますが、デザインする側になるために、われわれは何をしていったらいいかということを1つ、お伺いしたいと思います。
もう1つは、生徒の方は、結局のところというか、私の解釈では、やる気というか、consciousness -raising、あるいはモチベーションというものにどのようにつなげていけるかということだと思います。
先ほどAutonomy(自律学習)のことが出ましたが、結局授業の時間も限られているということもおっしゃっておりました。そうなりますと、家庭学習というか、ほかをどのように、24時間の中のほかの時間をどのようにドミネートしていくのか。そういったところで、結局家庭学習ということになってきますけれども、そこで例えば宿題をどんどん出すとか、どういったものがよろしいのか、そういった課題的なものをお聞きしたいと思います。
以上2つでございます。よろしくお願いします。
回答1
カリキュラムデザイナーとしての教師の在り方というのは、大きな役割というか、責任ですね。しかし、その責任を受けざるを得ないのが、英語教員だろうと思います。
つまり、その学校が置かれている状況や制約を知っていて、生徒がどのような生徒たちかを知っていて、どのような英語力を付けることが望まれているのか、というさまざまな要因、いわゆるニーズ分析ということになりますが、そのニーズを熟知しているのは、英語教員にほかならないわけです。
ですから、自分が担当している教育の場でのさまざまな制約、例えば物理的な制約、教室がどうとか、本来だったらこういう教室がいいのにそれがないとか、あるいは時間数がもっと多ければいいのにそれができないとか、いろいろあるだろうと思いますけれども、そのような制約の中でどのようなメソッドがいいのか、どのような教科書を使うのか、というのは、専任である英語教員が、責任を持ってカリキュラムをデザインしていかなければいけない。その骨子がないと、ばらばらな教育になってしまう。
「教科書で教える」のか、「教科書を教える」のかという問題がありますけれども、高校までの段階では、どうしても教科書というのは非常に大きな比重を占めます。教科書で教えるといっても、やはり結局は教科書を教えるという部分が多いでしょうから、そうすると、教科書をどの教科書にするのか、あるいは副教材を何にするのかということでも。教育の中身が大きく変わってくる。
それから、高校段階で完全なcontent-basedというのは、なかなか難しいように思います。というのは、Content-based Teachingの趣旨というのは、英語学習をしないで結果的に英語力を付けるという、つまり英語以外のことを学ぶことによって英語の力を付けるというのが、純粋な意味でのCBTです。
でも、その応用を使うことは可能です。例えば全カリ(全学共通カリキュラム)の英語では、英語の時間だけれども、テーマ別にして内容に焦点を当てます。ただ、ここが難しいところで、大学でさえ、英語の学習と内容の学習の境界線が難しい。内容に行き過ぎると、肝心の英語がおろそかになって、何の授業をやっているのか分からなくなってしまう。それを中高でやる場合には、相当の工夫が必要だろう、という感じはあります。
むしろ中学校まではFocus on Formという考え方が、重要ではないかと考えています。コミュニケーションに使える英語を教えるのだけれども、どのように形式も取り込んでいくか、工夫のしどころなのだろうと思います。
例えばtask-based approachを導入したいとして、そこにFocus on Formをどう組み入れるかというと、なかなか苦労します。そこに教科書をどう組み合わせるか、という問題も入ってきますし。
多分そのへんのところは、うちの英語教育はここまで持って行きたいのだという目標を考え、現状の制約の中で、では、これをこのように、という取捨選択になってくるのではないでしょうか。そのように思います。
質問2
Focus on Formと、Focus On Formsというのがあると思うのですけれども、結局のところは中高の段階ではミックスさせていくということでございますか。学年が上にいくに従って、特にそのバランスが変わっていくとか、そういったことは。
回答2
ひとつ重要なのは、Focus on Formという考え方が出てきたのは、コミュニカティブ・アプローチが定着しているという前提があってなのですね。ですから、英語カリキュラムが具体的にどういう現状であるかによって、話は違ってきます。
例えば、今までは文法にそれこそ焦点を置いて、強調してやってきたというのでしたら、もう少し視点を変えて、interactiveな授業を取り込むという意味でtask-basedを導入した方がいいのかもしれません。
質問3
先ほど中高ではなかなかcontent-basedは難しいとおっしゃっていらっしゃいましたが、そうしますと、いわゆる文部科学省のテキストに加えて副教材というのは、content-basedということではなくても、あるいは結果的にcontent-basedになるのではないかとそんな感じでしょうか。あと1つの家庭学習の方はいかがでしょうか。
回答3
content-basedというのは、私の理解では、たとえ英語の授業の枠内だとしても、要するに英語そのものを教えるというよりは、専門分野の内容を中心に据える、ということです。例えば環境問題をやります。環境問題について調べ学習をさせて、そしてそれについて発表させる。教員がミニ・レクチャーをする。それから、ディスカッション、ディベートなどいろいろなアクティビティを組み合わせていく。 つまり、学習者自身が英語を学んでいるのだという意識を持たず、環境問題のことを勉強しているのだと思っているけれど、実際には、環境問題について英語で書き、英語でレクチャーを聞き、英語でビデオを見る。あるいはインターネットで調べる、本で調べるというようなことで、英語で読む。そして発表ということで、英語で話す。ディスカッションで英語を使う。結果として4機能を駆使する、ということになります。 そういうことですから、この方法の欠点というのは、体系化しにくい、という点です。どのへんまでのレベルの語彙をどこで導入するかが決められない。内容によって学ぶ英語が左右されますから、そういう意味で、中高での実施は、なかなか難しいと申し上げたわけです。部分的な導入はできると思いますけれども。 最近は、文法シラバスはいけないというようなことになっていますね。けれども、本当にいけないのか。必要最低限のことを体系的に教えるという意味では、やりやすかった指導方法です。 それがシチュエーショナル・シラバスに変わっていくと、場面に応じていろいろな表現を教えることは出来るのだけれど、そうすると英会話学校の授業と、どう違うのか。場面別ではいろいろ学んだけれども、それが体系的な英語力として身に付くという保証があるのかということにもなりますね。 多分、コミュニカティブ・アプローチに対する一番の批判はそこの部分でしょう。学習者中心であるとか、あまりaccuracyにこだわらないで、自由に話すというfluency重視の考え方自体は、そんなに悪くないけれども、結果として、文法指導がなくなって、何でもいいからしゃべりなさいというのでは、学校教育の使命は一体どこに行ってしまうの、ということになります。安易にContent-based Teachingを導入すると、同じことになりかねません。Content-based Teachingでカリキュラムをコントロールすることは難しいので。取り上げるテーマの内容に引きずられますから、難易度をコントロールするのは難しくなりますし体系的な指導も難しくなります。 そういう意味では、私は、実をいうと、高校ではもっと「読む」ことが大切ではないかと思っています。リーディングの力を付けることは、あるいはライティングの力を付けることは、高校段階でこそきちんとやるべきではないかなと、現在の大学生を見ていて思うのですね。内容のあるものを読ませたいと思っても、基礎学力がないと進みませんから。 ちょっとしたところでつまずいてしまう。それは語彙力の甚だしい欠如ということもありますし、使われている表現や構文に出遭ったことがないということもありますし、書かせてみると、あ、書いていないんだな、書くということをあまりしてこなかったのかなと思わざるをえない。それはいわゆる和文英訳という段階ではなく、センテンス以上のディスコースで、パラグラフとしての英語を理解して書いていくということです。 最近のコンピューターTOEFLのエッセイ・ライティングの採点基準は、パラグラフ構成であり、ディスコース能力です。ちょっとした文法の間違いくらいは、あまり減点しないのですけれども、パラグラフを3つくらい書けということになっていて、そのパラグラフをただ3つ並べればいいのではなく、ちゃんとイントロダクションとディスカッションと結論になっているかというところを見ています。そういう意味での、英語的なパラグラフ構成で一貫性と結束性のある英文を書くという、そういうところにもっと時間を割いた方がいいのではないかという気がするのですが、いかがでしょうか。
家庭学習については、これは難しいところで、”autonomy”、自律性を育てることと家庭学習として宿題を出すということと、相反することにならないよう、どうするか。宿題を出すことで、「まいっちゃうなあ、また宿題だぜ」と言って、早いとこやっちゃってテレビ観よう、みたいな感じで嫌々やるのでは、自律性に結び付かない。
自律性をどうやって育てるかというのは、本当に難しいのですけれども、では放っておけばいいかというと、そうでもない。そんなことは決してないわけです。ということは、自律的でなければできないような課題を出せないだろうかと、そんなことを考えているのですけれども。
質問4
例えば、コーポラティブラーニングとか、一人ではなくて数名でどこかへ行って環境問題の所へ行って、そのリポートを書いて、そのプレゼンテーションとか、そういうことなどは、中高のレベルでもそういう簡単なものでしたら大丈夫でしょうか。
回答4
ああ、良いですね。そういうものならできると思います。現場でのいろいろな取り組みを見ていると、中学では難しいのではないかと思うようなこともあるのですけれども、ただ、やり方次第ということは確かにあります。 身近なことを英語で説明させるなどということをやると、大学生でも案外できないのですね。立教の歴史を留学生に英語で説明するなどということをさせてみると、大学1年生、2年生が予想外に困ってしまって、いわんや日本について説明するのは、大学生でさえも四苦八苦しますが、でもとても興味を持って積極的に取り組むということがあります。 あるいは私の授業でジェンダーの問題をやっているのですけれども、日本でのジェンダーの問題について考えさせてディスカッションをして、それを基に発表するなどということでも苦労します。 中には「女性専用車の是非」などというのを言い出す学生がいるのですが、それを英語で説明するとなると、結構大変なのですね。日本の社会を全く知らない外国人に、一から、なぜ女性専用車が必要になったのかという経緯から説明しなければいけない。そうすると、痴漢が多いとか、朝のラッシュがどれだけすごいかというような、そこから女性専用車の発想が生まれたという事情を、相手に分かるように説明するというのに四苦八苦していました。 だから、そんなに身近なことでさえも英語で話すとなると難しいということです。まず自分のことを説明することから始めて、身の回りのこと、家族のこと、そして学校のこと、地域のこと、と広げていくのかなと思います。一挙に国際問題などというのではなく。もっとも、英語を通して世界に目を向けて欲しい、という思いもありますが。
指定者質問3:古平(立教池袋中学校・高等学校)
質問1
私の質問は、Faculty Development、教員研修についてです。教員研修というと聞こえはいいのですが、少し一歩手前の教員意識改革についてお聞きしたいと思います。
先ほど本校校長の後藤先生は、専任の教員がここに2、3人しか参加していないのは残念だと感じているとのことでした。鳥飼先生は、「中間試験があったりしてお忙しいのでしょう」とおっしゃっていただきましたが、考えてみると、中間試験がなくても来ない先生は来ないのではないかと思います。いかにしたら、教員が自ら学ぶ、積極的な姿勢を持ち続けられるのでしょうか。
先ほど鳥飼先生は、全学共通カリキュラムの中で、統一シラバスとか、統一のテキストを使って、1997年に新カリキュラムを推し進めたということでありました。その際に、身を切るような努力をなさったというようなことをおっしゃっていました。
教員というのは、私もその端くれですが、一人ひとりが一国一城のあるじのように感じていまして、自分の在り方が正しいと信じてしまうと、それをなかなか変えたがらない。お互いが同じ専任教員だと、なおさらで、こちらが何か提案をしても、一蹴(いっしゅう)されてしまうこともよくあります。
お互いが教授同士という立場では、なおさらそういうこともあるかと思います。どのようにして、先生がこの共通カリキュラムを推し進める際に、先生の意図、理念をほかの先生方に浸透させていったのでしょうか。先生の経験や苦労話をしていただければと思います。
回答1
ご質問を伺いながら、1997年全カリ発足からのことをいろいろ思いだしていたのですけれども、実は、私は1997年に着任しましたので、本当に大変だったのは、その前に地ならしをしていた先生たちだったと思うのです。
普通だったら、できなかったと思いますね。多分これほどの改革が可能だったのは、大学冬の時代を迎えて、このままでは立教の未来はないという大変な危機感が全学にあった。それは、英語教員だけでなく、専門学部がその危機感を強くした。これまでのような英語教育では、とても学生を引き付けられない。
ご承知のように、大学の受験生というのは、まだ18歳だと幼い面もあって、自分の専門性よりは、もう少し手前のところで大学を選ぶ場合が多い。その手前のところとで一番、目につきやすいのは英語教育なのですね。どの進学説明会に行っても、受験生が必ず質問するのは英語教育です。学部を問わず、英語教育はどうなっていますか、語学研修はありますか、留学できますか、ネイティブの先生はどのくらいいますかというような質問が出る。又、実際に英語力のある卒業生を送り出さなければ社会の評価も得られない。そういうこともあって、生き残りを懸けたわけです。それが1つ。
その生き残りを懸ける改革を余儀なくされたのは、立教大学だけかというと、全国の大学もすべてそうだったのですけれども、やはり出遅れた大学もいました。その中で立教大学は、早いうちに踏み切った。だから、実をいうと、今ご質問があったようなことは、その後1997年に立教が全カリを始めてから、各大学が続々と見学に来て、その中の質問というのは、今まさしく古平先生がおっしゃっていた、どうやって教員の意識改革をしたか、という質問が多かったですね。
ただ、月日はたって今、2005年ですね。実は、去年の現代GPに応募した70何大学の英語教育の取り組み申請内容を全部読みましたけれども、ここまで変わったかと驚きました。いまや必死の努力をしていない大学はないほどです。
ということで、やはり外圧ですね。冬の時代、18歳人口の大幅な減少、何とかしなければ、何とかほかの大学と差異化を図って、優れたカリキュラムを提示しなければ生き残れないという厳しい状況に初めてさらされたということが大きかったと思います。
それまでは、やはりそういうことがあまり見えない先生たちの方が多かったと思います。「そんなこと言ったって、立教は大丈夫でしょう」という感じで。そして終に改革となり、「自分はもう20年この文学作品を使ってやってきたんだ」とか、「この教科書を使って好きなようにやってきたんだ、何で今更そんなことをやらなきゃいけないのか、何で自分がテープレコーダーを持って、リスニングなんていう授業をやらなければいけないのか。」というような、そういう思い持たれた先生方も多かったろうと思います。
そういった反対を押し切ってやってのけることができたというのは、やはり生き残りを懸けて全学がバックアップしたということだと思います。英語教員だけではとてもできないですよね。専門の先生方を含めて、大学の執行部を含めて、全学部がそれを応援した。
そういう中で何が大切かと言えば、学生にとって魅力のあるカリキュラムをつくることです。そのためには各学部がばらばら、各先生がばらばらの教科書で授業をしたのでは、シラバスを統一したことの意味がなくなります。
シラバスを統一したときに、教科書を統一するというのは当たり前で、1つではなく2冊あるうちの1つを選ぶということはあるでしょうが、シラバスは統一したけれども、テキストは各自ばらばらですとなったら、カリキュラム内容自体がばらばらになってしまうので、それは当然ながら教科書を統一する。そして、成績評価の基準も統一する。
つまり、学生に成績を出すときに、各教員が恣意(しい)的にするのでは全く意味がないので、出席点が30パーセントだとすると、平常点で40パーセント、そして期末試験が30パーセント。期末試験は、この科目の場合は統一試験、あるいは、この場合には大体枠組みを決めたプレゼンテーションで、こういう基準の基に評価を出す、というようなことを全て決め、それは履修要綱にシラバスとして載せる。
公表しているシラバスと合致しない授業をした先生は、やはり学生から、クレームが出ます。その場合には、その都度、英語研究室がその先生とお話しし、ご理解をいただいて、ご協力いただく。 そして、Faculty DevelopmentというFDに関することは、1年間に4回は、非常勤の先生方も含めて実施します。このカリキュラムは、このような趣旨ですから、こういうふうに授業をしてくださいとか、このカリキュラムを半年間やってどうでしたか、というような意見や感想、提案なども出していただきます。そして、そこで出た意見によって、この教科書はどうも使いにくいということなら、次年度用に代わりの教科書を提案してくださいというお願いもします。そうやって、実際に統一テキストを替えることもあります。
仮に、自分が作成した教科書が非常に良いので使いたい、統一教科書として採用するのに値しますというのであれば、どうぞ提案してくださいとなります。複数の候補の中から検討し選考します、ということになります。
もう1つ大きかったのは、学生によるカリキュラム評価、授業評価を導入したこと。これは、各学期の終わりに学生に評価をしてもらいます。カリキュラム全体にわたって評価をするカリキュラム評価と、各教員の授業を評価する授業評価と両方実施するわけです。それは必ずやっていただく。
最初は、勤務評定に使うのかというような反発もあったのですが、いや、そうではなくて、これは自分の授業の今後の改良に役立てるものであって、評価に使うことはしませんという了解の下に始めました。
そうするとやはり学生はいろいろと書いてきます。声が小さすぎて何を言っているのか分からないとか、板書の字が読みにくいいうことから始まって、はっきり書いてきます。
全カリが発足した時から、授業はベルが鳴ったら直ちに開始するということを始めたのですが、どうやら立教ではその前までは、アカデミックアワーと称して、先生たるものすぐに行くべきではない、15分、20分くらい遅れて行くのが当然だという考えがあったらしいのですけれども、その調子でやっていたら、学生から厳しい批判がくる。学生に遅刻を厳しく言っておいて、先生が遅れるのはいかがなものか、腹が立つ、と書いてくるわけです。
実は全カリ英語では、学生に対して非常に出欠を厳しくしていて、3回の遅刻は1回の欠席と見なす。授業の3分の1を欠席したら、自動的にその授業は不可ということを、履修要綱にきちんと書いてあります。そうすると、学生にそれだけ厳しく言っていながら、教師がいいかげんなことをしていては困る、ということで、FDで、学生からこういう声が出ましたということを報告し、協力をお願いしながらやってきたといえます。
意識改革で私がこのごろ思っているのは、やはり「巻き込んでいく」ということですね。どうやって巻き込んでいくか。統一教科書について不満を持つ。統一なんかしない方がいいとおっしゃる方についても、やはり理念を説明するしかないのですね。
「ばらばらにやっていることによって、学生が不利益を蒙ります、立教大学の責任として、同質の英語教育を提供したいということだと、やはり教科書を統一することから始めないと統一スタンダードはできませんので、そこはよろしくお願いいたします」。
「今決まっている統一教科書は、未来永劫ということではないので、お使いいただいて不都合があった場合には、constructive criticismというのですね、建設的な批判をいただきたい。そして、代案をいただきたい。代わりに、ではこういう教科書がこういう理由でいいと思われたら、ぜひご意見を下さい。前向きに一緒に検討します」ということで、FDで議論します。
そういう経緯で推薦された教科書を統一教科書として採用したということもありますし、それから自前の教科書を作るときに、賛同者を募って一緒に作りましょうと、一緒にやってくださいという呼びかけをして、パッセージを集めましょうとか、自分はアクティビティを考えますとか、そういうようなことで、やはり一緒に作っていく。最初は自分には関係ないと言っていたとしても、どうせやるなら主体的にやった方が誰しも楽しい、やりがいがあるので、少しずつ巻き込んでいって、一緒に考えるということではないかなと最近思っています。
会場からの質問1
質問1
2つほどお伺いしたいと思います。
1つは、最初の方でございました、文部科学省からのいろいろなこと、対談、今日ちょっとご説明にもありましたけれども、SELHiの成果とか、そういうものは、数値で表すことを文部科学省はよく言っていると。文部科学省が要求していることは、やはりそこで100パーセントの成果が上がる、例えば英検2級を全員が受からなければ満足しないというレベルのものを要求しているのかどうかということが1つ。
もう1つは、こういうコミュニケーションに関するいろいろなことがいわれてきたことが、各大学の入試、例えば立教大学の経営、国際経営学科の入試に対しては、どのように反映されていくのか。これは、先ほど古平先生が質問したこととも、非常に大きく関係してくると思います。入試がこういうふうに変わって、こういうふうにしなければいけないのだということがあれば、高校の立場としては、どうしてもそれに合わせなければいけない。特に立教高校は、多くの人が立教大学に進学するわけですから、立教大学の入試はこういうふうに変わった。そしてそれに合った生徒を採らなければいけないのだから、本校の教育はこのようにしなければいけないのだという部分で、非常に教員の意識改革にもつながっていくのだろうと思いますので、そのへんのところをお聞かせいただきたいです。
回答1
ありがとうございました。
最初のご質問に関しては、実際問題としては、文部科学省は数値を出していますけれども、出てきた数値で例えば2級を取らなければ駄目だといったところで、取れないものは取れないので、だからペナルティーを課すなどということはありえません。むしろ、成果を出した学校を手本として広く公表し奨励していくということではないでしょうか。
教員に対しては、昇進させないとか、今後の採用は英検準1級以上とか、それはあるのですけれども、生徒の到達度については、一律にどうこうということは出来ないですよね。但し、GPやSELHiなどに採択された場合には、両者とも結果を厳しく検証するシステムになっています。
文部科学省の会議でいみじくも担当官から出た言葉は、要するに一連のこういうSELHiとかGPのようなことで、何を文部科学省はやろうとしているかというと、それで英語教育を変えたいのだ、と。日本の学校教育を変えていきたいのだ。それは英語だけではなく、GPは英語だけではなくて、ほかにもいろいろな分野があるわけです。そういう意味では、大学も含めて日本の学校教育そのものを改革していきたいという、その仕掛けとして、SELHiがあり、GPがある。それをまとめて提示したのが『行動計画』ということのようですね。
その企てはそのとおりになっている、と私は思います。つまり、やはり多額の補助金を獲得するのは、お金だけではない付加価値も生むわけです。ステータスにもなる。SELHiに指定された、あるいは現代GPに採択になった。各大学も、各高校でも、これは入試広報に最大限に利用していますから。そして、それは受験者数に直結するわけです。志願者増に直結するという意味で、必死になってみんなやり始めた。ということは、結果として文部科学省のもくろみどおり、日本の学校教育は大きく動いてきているのです。何と言っても動いています。
大学入試も、文部科学省は変えようとしていまして、2006年度からはリスニング試験をセンター入試に導入します(注:06年2月現在、初の試みが実施されましたが、機器の故障で再試験になったケースが予想外に多く混乱し、来年度への課題を残しました)。多くの反対を押し切りながら、莫大な予算を投じて、使い捨てのイヤホンなどまで開発して用意して、そこまでしてリスニングをやりたいかと思うのですけれども、それは、先ほどいみじくもおっしゃったように、大学入試が変われば高校英語教育が変わる、という理由です。
SELHi指定校は100校程度ですが、全国を見てみると、オーラルコミュニケーションと称して実はオーラルグラマーをやっているような学校が中にはあるようです。オーラルコミュニケーションといって会話の練習などやっていたら、大学入試は駄目だということで、ひそかにグラマー、文法をやって受験指導をしているという高校が結構あります。それを、「OCではなくてOGをやっている」と称しているのですが、文部科学省もこの実情はよく知っていて、そういうことをなくしたいというわけです。
センター入試にリスニング試験が導入されれば、OGなどということは、とてもやっていられないから、やはりオーラルコミュニケーションを必死にやらざるを得ないだろうということで、センター入試にリスニング試験を導入しますし、各大学にリスニング試験をなるべく導入するようにと要請が来ています。大学入試を改革する、その改革の最も明確な形として文部科学省が考えているのが、リスニング試験導入なのですね。
立教大学は、今のところリスニング試験導入を見送っています。リスニング試験に伴う様々な負担に見合うだけの意義があることだと考えていないということです。しかも、リスニング試験ほど受験生にとって不平等なことはないという意識も個人的にはあります。つまり、テープで英語を聞かせてその答えを書くような試験になれば、当然ながら帰国子女や留学経験者は楽なわけです。
私はその点を指摘して、リスニング推進派と議論したことがあります。帰国子女には帰国子女枠というものがあって、一般の入試よりははるかに低いハードルで入学できるので、今や隠れ帰国子女のような受験生さえいて、帰国子女枠で入試を受けたいがために、外国に行ったような受験生さえ出てきているのだから、帰国子女にますます有利になるということの是非を聞いたことがあります。けれども、推進派に言わせると、そうは言っても帰国子女は、日本社会全体としてみれば損をすることが多いのだから、それくらいのハンディを付けてあげてもいいだろうという見方をしていました。
立教大学は比較的、そういう文部科学省の方針にあまり右往左往しないで、自らの信じる道を行くという気持ちが強いのですけれども、いつまでもそうできるかどうかはわかりません。文部科学省からの指導というか、アドバイスというか、そういうお知らせが来ますので。だから、2006年度に関しては実施しませんでしたが、教員にもさまざまな意見がありますし、今後のことは分かりません。大学にとって、入試の見直しということは大きな課題ですので、慎重に検討していくことになるでしょう。
ただ、リスニング試験導入に関しては、教室の問題ですとか物理的制約がありますが、全国的に見ると大学入試は大きく変わってきています。
リスニングを導入する大学は、ますます増えてくるでしょうし、すでに東大は1988年からリスニングを導入しています。各大学ともセンター入試的な、もう少し会話的な要素を取り入れたような設問が多くなっていると思います。
あまり難解な問題を出しますと、注意されますので、たとえば立教なら立教らしさを出しながら、新しい英語教育に沿った出題、しかも出題ミスが絶対にあってはいけないので、入試というのは大事業です。そういう意味で、入試改革は、なかなか難しいことなのですが、でも、どの大学の入試にも、英語教育改革の影響は、じわじわと現れてきていると思います。
ちなみに、文部科学省は、先ほど申し上げましたように、小学校の英語教育の教科化を検討中ですし、中学校は、これから何か考えるということのようです。高校ではSELHiがあり、大学ではGPで「仕事で英語が使える日本人」の育成を実現させようとしています。文部科学省は曲りなりにも一貫教育を考えていると言えそうです。
数年前の懇談会でも、とにかく英語教育に一貫性が必要である、一本の柱が必要であるということが強く出ました。これに対しては何の異論もなく、意見が一致しました。文部科学省的に見ると、これは、その問題提起への回答で、一貫した英語教育を具体化しようという表れなのだと思います。多分、その理念としては「コミュニケーションに使える英語」ということで、国として、小学校から大学に至るまで、一本の筋を通しているということだと解釈しています。現場でのさまざまな問題はさておいてですが。
立教大学もそういう意味で、学院内の一貫連携だけでなく、SELHi指定校のうち何校かを指定校推薦にするというような試みをしています。SELHi指定校というのは英語教育に力を入れていると、対外的に認められた高校と言えますから、指定校という形で一貫性を考えるのも1つのアイデアだと思います。今までの立教大学が行ってきたような指定校推薦とは、明らかに違う種類の指定校の選び方です。
自由選抜入試の中で英語の能力によって選考するという、一般入試とは違った観点からの入試が取り入れられたり、英語の力が一般入試以外のところで評価される可能性が出てくるというのは、全体的な流れかもしれません。
補足:鳥飼玖美子
文部科学省では、今年から「特色のある大学教育」に伴って「現代的教育ニーズを支援するプログラム」で努力した大学には補助金を出すようになり、そのカテゴリーの大きなテーマのひとつが「仕事で使える英語人を育成している大学」である。そして、青山学院では、青山スタンダードでこれまで縦軸を整備し、これからは横軸の整備をおこなうようだが、立教では1997年に全学共通カリキュラムという横軸における改革をおこなったが、今後は縦軸の整備に入ることになっている。
会場からの質問2
質問1
もうちょっと短い期間のお話なのですけれども、先ほど教員の意識改革のような話もあって、それより前に教員の意識は変わったか、生徒の意識はどう変わったかというのをおっしゃっていましたね。
今、大学でこういった展開で同じような、コミュニケーションを重視した授業をやっていると思うのですが、入ってくる大多数の生徒は、厳しい受験を通り越して来ていますよね。高校まででもそういった受験に対応するための授業を受けてきて、ある生徒は一本で入れる、あるいは浪人して入ってきたりするわけですね。
そういう生徒が、まだ少ないでしょうけど、コミュニケーションをいっぱい受けてきたような高校から来た生徒と同じクラスに入って、それで今、ここ数年、どのように意見を出しているか聞きたいですね。
というのは、現状で苦労しているのは、なかなか高校の授業でコミュニケーション、コミュニカティブをやろうと思っても、生徒がなかなか付いてこないというのがありまして、そういったことを具体的にお聞かせ願います。
回答1
面白いことに、今おっしゃったのは、受験で入ってきた学生が多いということなのですが、そういう学生たちが逆に燃え尽き症候群のような、大学受験が人生最大の目標のように頑張ってきて、入ったら目標がなくなったというような感じで、燃え尽きるみたいな、そういう感じが無きにしもあらずですね。
もちろん、今のは非常に一般化して言っているのですけれども、系列校から来ている、推薦で入っている、一般入試で入ってきたということを問わず、最近の学生が変わってきているという認識はあります。
実は、これは面白いというよりは、由々しきことなのですけれども、去年ですか、非常勤の先生方、あるいはネイティブの先生方から、英語の授業が授業にならないという悩みが寄せられるようになりました。
コミュニケーションのための英語の授業ですから、講義とは違います。一方的な講義ならば、学生が寝ているのは不愉快だけれども、「おい、そこ、寝るな」などと言って講義していれば済むわけですが、英語の授業はそういうわけにはいきません。やはりinteractionですから、意見を言わせて、発表させる、討論する、というようなことを授業でするのだけれども、学生が乗ってこない。そっぽを向いている。やる気がない。興味・関心を示さない、というようなことを訴える先生たちが出てきたというのです。個人的には、これは学生だけの責任ではなく教師の力量だと思いますが、悩める教師が増えてきたことは事実のようです。
そもそも教師には、どの学生が一般入試か推薦か、学院内から来ているのか、全く分からないわけです。ですから、どのカテゴリーの学生に問題があるのかは分かりませんけれども、要するに1年生の英語の授業で手を焼く先生が増えてきた。
それで、FDで、これまでは英語教育に関する講師をお招きして、英語教育に関する講演などを4月の初回にやっていたのですが、今年初めて、現代の大学生とはどういう人種かというお話を、教育心理学がご専門の大野先生に講師になっていただいて、英語のネイティブスピーカーの先生も多いですから、英語に同時通訳をして、FDとしました。
大野先生の講演によりますと、やはり育ってきた環境、それから経てきた教育、そして受験の在り方などで、1つは燃え尽き症候群のような話も出ましたし、自ら何かを学ぼうとする意欲を持つ暇もなく来ている、あるいはその必要もなく来てしまっているというようなことで、やる気が起きない、興味が起きない、何をしていいか分からない。中にはそれがずっと続いて、仕事をするといっても、どういう仕事を自分がやりたいのか分からなく成っている学生がいる、というのです。
つまり恵まれているわけです。これをしなければいけない、卒業したらこれをやりなさいというようなことがほとんどなくて、親も今は理解がありますから、「好きなことをやりなさい。何でも応援するから」と言う。すると、好きなことが何なのか、自分でも分からない。自分は一体何が好きなのだろう。
学部に入っても、その学部で何がやりたいからではなく、何となく面白そうだった、あるいは偏差値的にこのへんかなと思ったとか、いくつか受けた中で、偶々ここに入ったという学生がいる。社会学のこれをやりたいのだとか、法学のこれがやりたいのかということよりは、たまたま入って、さてどうしましょう、英語もできたら嬉しいのだけれども、でも勉強もかったるいし、もう疲れたみたいな感じでしょうか。
そうこうしているうちに友達ができて、サークルに誘われて、飲み会に行き、バイトをやってみるとお金も入るし、というようなことで、授業はちょっと出るだけ。出ても、何か眠くてみたいな。
だから大野先生の、さまざまな観点からの解説では、ある意味で仕方がないのだ、ということですね。そういう学生たちをどのように振り向かせるかということの荷の重さを今更のように知って、英語教員は愕然とした、というところです。
ですから立教から来た学生がどうこうということよりは、むしろ現代の学生に共通したものがあるのではなかろうか。私は比較的、強気というか楽観的な人間ですので、ならば、英語の時間に学生に何かインパクトを与えて、何かやろうかという気を起こさせられないかなと思うわけです。私が今、自分の英語の授業でやっているのは、それだけをやっているような感じもあります。いろいろなテーマを持ってきて学生の反応を見ながら。
私が今やっているのは、「英語同時通訳法」という授業ですけれども、同時通訳の技術を教えているつもりは全くなくて、それはただの方法に過ぎないのです。
結果として同時通訳者が生まれれば、それは大変結構な、うれしいことなのですけれども、そうでなくても、そこで揺さぶることによって、何かに興味を持って欲しい。若さというのは、限りない可能性があるのですね。だから、自分の可能性に気が付いてほしい。何かに興味を持ったときに、そして何かをやり出したときに、何かを成し遂げる能力というのは、立教生は持っていますから、必要なのは、きっかけなのですね。私は、英語の授業がそのきっかけとなってほしいというふうに思っているのですけれども、楽観的すぎますでしょうか。
会場からの質問3
質問1
今日は、鳥飼先生をはじめ、先生方からも貴重なお話を伺い、ありがたく思っております。
やはり特に大学が皮切りとなりまして、青学のボキャブラリーに重きを置いたものに対し、では、立教はシンタクスで出るかというとそうではなく、すごく広い度量を持った視野、あるいはリベラルな雰囲気というのを大学の先生自身が持って学生にお伝えになっているのを知りまして、あらためて、私自身うれしく思っております。
紹介が遅れましたが、私自身は、立教池袋で今、高校3年生中心に担当しております。
特徴としまして、どうしてもこういう環境ですと、なかなかそういう積み上げなどという部分では、私自身の力のなさもあるのですけれども、生徒自身もなかなか、やろう、必要だと分かっていても、どうしても二の足を踏んでしまうという部分があるのが現状でございます。
テストに関しても、例えば私はOCの試験で、選択式の答えが1つしかないものに関しては、なかなか正解してくれないにもかかわらず、話者の意図は何ですかと聞いたときに、例えばこういう問題を出したのですが、「this capital of China」というふうにAがすっとぼけたことを言って、Bが「Yeah, just like long jump is the capital of the United States」
では、Bの意図は何かというのを聞いたときに、そういうのに関してはすごく必要以上に丁寧に答えてもらって、せっかくそういうセンスがあるのに、ちょっと英語に対するすみ分けも必要とするという認識の甘さが、残念ながら生徒にも少しあるようです。それも課題です。
そういう中で、最近世の中で、恐らくイギリスの初等教育の影響を受けてだと思うのですけれども、読みを中心にした、例えば100万語克服などということに代表される、オーラルをやる上でも速読力ということが提唱されてきているようですけれども、教室の中でどう実践できるか、あるいは生徒にどうそちらの方向に興味を持たせて方向付けることがあるかという可能性について、先生のスタンスを含め、お聞かせいただければありがたいと思います。
回答1
基本的に、私は中高の先生方は大変だなと思うのです。要するに、最低限やらなければいけないものがあって、それをテストということで測らなければいけないし、でも、コミュニケーションで使えるということで、もう少し広い部分を教えなければいけない。そういう意味では本当に大変だなと思います。
私はトップダウンとボトムアップとどちらが大事かというと、やはりどちらも大事で、どちらかというと、中高でボトムアップをしっかり学んだ上でこそ、トップダウンの能力が生きてくると思うのです。ボトムが何もなくて、いきなりトップダウンといっても、たとえば未知語の処理で、これまで知っている単語であるとか、背景知識などのスキーマを活性化させて内容を推測するといっても、ある程度の語彙力がなかったら推測も何もできないわけです。
オーラルコミュニケーションにしても、何をもって測るかという先ほどの話になりますけれども、話者の意図というのも、実は突き詰めていくと複雑な要素があります。話者の意図をどのようにとらえるかというのは、文化が異なる場合、あるいは同じ文化でもコンテクストが違う場合、同じ文脈を共有していない場合には、意図を読み取れない、読み間違うということはあり得るわけです。でも、そういう難しさをあまり言ってしまうと、中高生たちのやる気をなくす。
そのへんの難しさを踏まえながらというと、私は読むということは、話す力の基盤を作ると考えています。雲をつかむような会話を持ってきて、コミュニケーションとしてそれを覚えるということではなく、きちんと読むことによって、相当な語彙が獲得できます。リーデイングは何を読むかをコントロールできますし、場合によってはコントロールしないで好きな物を読ませて、Extensive Reading につなげるという可能性もできます。もちろん、こちらでコントロールして適切な文章を読ませて、intensive readingとして読解力を付けることも重要です。
やはり読んでいる学生は違うというふうに思います。読み書きの力というのは、必ず話す力に反映されてきます。読んでいないと、会話をしても限度があって、応用がきかないし、第一、話す内容がありません。
ただ、読むときの読ませ方だと思うのです。これはどういうために読ませるのか、速読のためなのか、あるいはcritical readingで批判的に読ませて、意見を出させるのか、あるいは大量に読ませて英語に慣れさせるのか、そのへんを全体のカリキュラムの中で、どのように位置付けて、導入していくかということ。これは、上手に結び付ければ、リーディングからライティングに進み、そのまま話す力につなげていくことが可能だと思います。
多分、先ほどのご質問と関係あるのですけれども、それを生徒が理解しているかというのが問題ですね。中学生はちょっと難しいかもしれないけれど、高校生あたりになると、かなり理解できるはずですから、これが将来にどう結び付くのか、英語の総合的な力の向上に役立つのか、説明したいですね。先ほどの達成感があるかないかと同じで、どこか生徒というのは、「これをやったって会話力に結び付かない」とか、意外なところで割り切って、「本当はこんなのやったってしようがないんだけど」みたいなことを思っている場合があるので、そうではないのだと理解してもらいたい。
だから、文法についても「コミュニカテイブグラマー」くらいの言い方をして、話をするときにこういう文法が必要なのだということでひきつけながらやる。あるいは、読むということは、決して切り離された活動ではなくて、ひいては自分の血となり肉となって、それが話す力、コミュニケーション能力の主要な核となるのだということを認識させた方が、熱心に取り組むのかなという気がします。まあ、言ったから言うことを聞くというものでもないですけれどもね。
今日はせっかくバトラー後藤先生が会場にいらっしゃるので、何か一言いただいたらいかがでしょうか。バトラー先生に、今の点に関しても、それから、先ほどのcontent-basedのことに関しても、いろいろとご意見がおありと思いますので、ぜひ皆さんにお願いします。
会場からの質問4
質問1
もう本当に時間も押しているので恐縮なのですが、せっかく立教にいらっしゃる鳥飼先生が今日こうして来てくださいましたので、是非伺いたいことがあります。
ここ3年来ワーキンググループを中心に英語の一貫連携を進め、その中で相互の授業参観も続けてきました。しかし以前、松香洋子先生をお招きした異文化コミュニケーションの授業を拝見したときに、「何回授業を見合っても、それだけでは連携は進まないのよ」とおっしゃって、授業を見あうだけでは駄目なのだということをご示唆くださいました。そこで私たちにとって、連携を進める次の一手は何なのかアドバイスをいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。
回答1
困ってしまいましたね。私は、授業を見学し合うことから始めたというのは、素晴らしいと思っていますし、その後随分話し合いが持たれて、やはりお互いを知り合うことがまず第一歩で、それがなくては何も始まらない。もっともっとこれをやってもいいと実は思っているのです。
やはり分かっているようでも、中学、高校となると、立教の中といっても私などは全然分かりません。逆に大学の授業はどうなっているかということも、例えば小学校の先生方、中高の先生方はよく知らないということでしたし、そういう意味でお互いの交流ということは、非常に重要だと思います。
でも、松香先生が「互いの授業を見合っていたって、いつまでもそれだけでは何も生まれない」とおっしゃるのも、その通りなのですね。ああ、お宅はこうやっていますか、そうですか、じゃあ、今度はうちの授業を見てください、とそれだけで終わるのでは何も生まれないわけでしょう。
私はできたら、ここに学院長がいらっしゃいますけれども、何か学院として組織的な場を、研究所のようなものを作っていただくことが可能ならば、そこに各学校から、これは閉ざされたものでなくて、もう少し広く系列、あるいは地域に広く還元していくということも含めて、何かもう少し授業見学から一歩進んだ何かができないだろうかと。そこからお互いが自由に批判し合って、何かを創り出していけないかなと。
その一歩としては、追跡調査がありますよね。各段階での接続がどうなっているかを調べるアンケート調査を資料としていただいていますが、例えばその結果を踏まえて、では、どうしようか、となるわけです。小学校から中学校の接続。中高の接続というのは、立教の場合には、あるいは香蘭も立教女学院も、内部でつながっていますので、やはり高大ですね。高校から大学への接続。これが今、全国的に問題になっているところですので、立教がここでパイオニアになり、先駆けになって還元していかれると良いですね。
今までは立教学院の中でどうしようかと話し合いを続けてきたけれども、それをもう少し広げられるように、何か体制が整うと、立教で試したこと、試行錯誤したことを社会に還元していくことが可能になります。
それを言うのは何故かと言えば、本当をいうと、立教を含め多くの日本の私立学校が、50年以上の一貫連携教育の実績がありながら、あるいは小学校英語教育の実績がありながら、この時代に何ら具体的な貢献ができないでいる。私立から何の声も出ていない。
長年やっているけれども、こうなのですよとか、こういう問題があります、ここはこうやるといいですよというのが、一切出てきていない。それはデータとして蓄積されていないからなのでしょうし、だから公立はゼロから始めようとしている。もちろんいろいろな面で条件は違いますけれども、しかし、50年100 年の歴史がありながら、これまでの蓄積を全く社会に還元できないというのは、学校の社会的責任を果たしていないともいえます。
そういう意味で、私は、立教学院の中で、せっかくこのような集いが過去何年間か行われてきているので、それをもう少しステップを上げて、本気で取り組んで、その成果を社会的に還元するまでにできたら素晴らしいなと思っています。
