学校法人 立教学院

英語科教員研修会
第二回「立教が目指す英語教育の一貫と連携 その理念と方法をさぐる?」

1. 英語教育の現況

まず、英語教育をとりまく社会的環境ということで、これはもう皆さま方、既にご承知かも しれませんけれども、そして今日ここには実は、公立の先生方も何人かお見えですけれども、 主たるメンバーは私学、それも立教学院ということで、あえて、私学が今、どのような状況 に置かれているか、という話から入りたいと思います。

先ほどのお話、立教学院長の松平先生、それから、立教池袋中高の校長先生、立教新座中高 の校長先生、お三方が一様におっしゃっていましたように、やはり立教に対する期待、ある いは英語教育に対する期待が非常に大きいということでした。そして、調査によれば、これ は松平先生がおっしゃったように、親の期待が非常に大きいということがあります。現場の教師よりも、あるいは本人で ある子どもたちよりも、むしろ英語教育に対しては親の期待が大きいというお話が紹介されましたが、実は、これが今の英 語教育を大きく動かしています。

一見すると、現在の動きは文部科学省の言語政策のもと、いろいろなことが行われていますけれども、これの元をずっとた どっていきますと、やはり一般の人たちの強い思いというものが国を動かしているという感じが否めません。

それはどういうことかというと、今までの学校英語教育に飽き足らない、今までの学校での英語教育は全く駄目であった、 こんなことでは日本はやっていかれない、という強い思いが、一般の方たち、そして実業界、産業界に強くあって、その声 が審議会等を通じて文部科学省を動かしてきているという事実です。

必ずしも、政府が上から号令をかけているだけで動いているわけではない。政府を動かしているのは、むしろ一般大衆の英 語に対する思いであるということは、認識しておきたいと思います。

そして現実に、私も審議会などに関わっておりますけれども、審議会に出てくるのは、さまざまな、いわゆる識者と称する 人たちで、むしろ英語教員よりは実業界の方などが多いのですけれど、大変厳しい意見をおっしゃいます。「学校に任せて おけない」といったことさえ、おっしゃる方もいます。

そういうことから、文部科学省が英語に関しては政策を強く打ち出してきて、かつてないほどの予算を投入しており、日本 の英語教育は、この数年、抜本的に変わってきています。

この流れは10 年以上前から始まっており、例えば1989 年改訂の学習指導要領には「コミュニケーション」という言葉 が取り入れられ、英語教育の目的はコミュニケーションのためにある、ということを文部科学省が学習指導要領に明記しま した。

そのころから少しずつ改革が進んでいるのですけれども、最も画期的なのは2002 年に出されました『「英語が使える日本 人」の育成のための戦略構想』です。これは実は、概算要求をするために文部科学省がまとめた構想なのですけれど、おそ らく日本の英語教育史上、かつてないほどの包括的な英語教育政策であった。そして、日本の英語教育を変える、という文 部科学省の強い意思表示の表れであったと言うことができます。

これは本当に、かつてないほど網羅的なものなのです。英語教育に関するありとあらゆることを、すべて入れています。

実は「戦略構想」というのは、概算要求をするための文書だったのですが、実際に予算がついた後は、それを行動に移すと いうことで、2003 年度には同じ名前で、『「英語が使える日本人」の育成のための行動計画』として発表され、着々とその 政策が実施されています。『「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想』が、今度は『行動計画』として実施に移され ている中には、大学入試改革、センター入試のリスニングテスト導入、高校生の留学支援などをはじめ、様々なものがあり ます。

例えば、先ほどお話が出ました、小学校での英語教育も、その一環です。これは、今、問題になっています「総合学習」と いう時間の中で、国際理解教育の一環として英語を導入している、教科ではないという意味合いから、英語教育という言葉 は一切使わずに、英会話活動、もしくは英語活動という言い方をしています。

教科ではないので、教科書も正式にはなく、教科の専門教員も配置していないという中で、日本全国で試みが行われており まして、先ほどもご紹介がありましたように全国で70%くらいの公立小学校が、すでに何らかの形で英語活動を取り入れ ています。

そして、中学校についてですが、不思議なことに中学校は『戦略構想』、それから『行動計画』でも、非常に影が薄かったので、 その点は私もいくつかのところで批判をしました。最も肝心な導入期教育なのですから。聞くところによりますと、中教審 の外国語部会で、ようやく今度は、そろそろ中学校に手を付けようというふうになりつつあるということです。

高校は、SELHi (Super English Language High School) という試みがあります。これは要するに、競争的資金を与え て改革を促進するということです。つまり、各高校に対して、英語についての特別な取り組みを奨励し、内容が非常によけ れば補助金をあげましょうということで応募をさせる。そして優秀な取り組みであると認められた高校が「セルハイ」校と して採択になるということで、これは始まって3年目です。 全国で約100 校がSELHi の指定を受け、多様な試みを行っています。初年度のSELHi 校はすでに報告書を提出しまして、 3 月にはビッグサイトでのフォーラムで成果報告の発表、あるいは模擬授業等が行われました。

その他、例えばALT(Assistant Language Teacher)の活用促進。今、ALT は日本全国で7千人くらいいますけれども、 そんなものでは足りない、倍増するという計画で、その上、優秀なALT はアシスタントという立場ではなく、将来的には 1000 人を目標に正規教員として採用する、という方向に向かっています。

そして、日本人の英語教員に対しては、全国の公立学校の英語教員、7 万人近いのですけれども、全員に指導力向上の為の 集中研修を義務づけています。具体的な実施については、各都道府県の教育委員会に委ねられているものですから、内容に ばらつきがありまして、「行ってみたけれど、何あれは」というような批判もちらほら聞きますけれども、少なくとも文部 科学省としては予算を投入して、5 ヵ年計画で全ての英語教員に研修を受けさせます。

さらに具体的に求められる英語力の目標として、配布資料には書いていませんけれども、中学校と高校段階に関して、英語 教育の目標を数値で明示しています。

中学校卒業段階の目標は、英検3 級程度。「挨拶や応対、身近な暮らしに関わる話題などについて平易はコミュニケーショ ンができる」ことをめざす。そして、高校卒業段階になりますと、「日常的な話題について通常のコミュニケーションができる」 ことをめざすということで、英検準2 級から2 級程度。

後で触れますが、大学については、実は数値の到達目標はないのですが、「大学を卒業したら仕事で英語が使える」こととなっ ており、そのような人材を育成する観点から、その内容および達成目標については各大学が設定し、創意工夫を凝らすよう にということになっています。

2. 英語教員の研修

そして、英語教員に対しても英語力の目安が数値で出されました。英検では準1 級。1 級ではなく準1 級です。それから TOEFL では550 点。TOEIC は730 点です。今後は、採用選考にあたっても、その数値により英語力の所持を確認する ことが求められます。教員の採用、評価の判断基準を抜本的に変えようとしているわけです。

先ほどの話に戻りますと、これは私学にとってどういうことを意味するか。先ほど、「英語の立教」という話が出ましたけ れども、立教にしてもそうですし、日本全国で170 校くらいの私立の中高があると思います。そして、戦前から或いは戦 後間もなくから英語教育を始めたような私立は珍しくないのです。つまり、50 年100 年にわたって、営々として英語教 育を行ってきた私学がたくさんあります。確か小学校は、慶應義塾が最初だというふうに聞いていますけれども、立教もか なり古くからやっていると思います。

ということで、これまでは、子どもに英語をやらせたいと思ったら、私学に通わせるというのが常識だったと思います。小 学校から英語があるし、先生もそろっているだろうし、外国人の先生も多いのだから、少々お金はかかるけれども何とか立 教へ入れようということで、立教小学校を受験するというようなこと、あるいは立教中学校をめざす、ということになります。

もちろん私学を目指す理由は他にもありますけれども、英語という観点から公立と私立とを比べた場合、これまでは私学が 圧倒的に有利だったと思います。つまり選ばれる側にあったということです。しかし、状況は大幅に変わってきています。

もはや、私学が有利な位置に立っているとは必ずしも言えなくなってきています。なぜならば、例えば教員研修が良い例で す。今日は、ここにお見えでない専任が多くて残念だというご挨拶が先ほどありましたけれども、専任は遊んでいるのでは なくて、今日は新座では中間試験もあると伺っておりますし、さまざまな行事や業務に追われているわけです。

1 年間の休みをとって勉強する、研修するなどということは、私学の場合は財政的にも極めて難しい状況にあります。しか し、公立の場合は国の支援がありますから、「大学院修学休業制度」というような制度を利用すれば、1 年間まるまる、場 合によっては2 年間休職をして大学院で学ぶことが出来ます。もちろんその間は休職扱いになるという問題があって、それ を何とかして欲しい、という声も出ていますけれども、少なくとも堂々と休みをとって大学院に入学して研究することがで きます。

そして、それほど長期の休みを取らないまでも、集中的な研修というのは確か数週間にわたるものなのですけれども、それ は全員が義務づけられています。悉皆研修。それから短期長期の海外研修。或いは国レベルでの研修、指導者講座などもあ り、ともかく教員が変わらなければ英語教育が変わらないという文部科学省の強い意志で、教員研修が重視されているわけ です。

それから、今までですと外国人の先生が豊富にいるのは私学だったのが、とんでもない。今や、むしろ公立のほうが多いか もしれません。ただ、中には、業者に派遣を任せているようなところもあるようですし、必ずしも素晴らしいネイティブス ピーカーが全国の公立中高にそろっているかというと、そんなことはないのですけれども、しかし数の上では、もう殆どす べての公立中高に外国人の先生がいます。1 人は珍しいことではないし、学校によっては2人くらい来ています。

3. 公立校の英語教育

そして小学校でも、今までは特権的に恵まれた私学で、小学校からの英語教育を行っていたのだけれども、今や全国の公立 小学校の70 パーセント以上が何らかの形で英語活動を行っています。

そしていずれは、文部科学省は英語学習の教科への転換を発表するだろうと思っています。今は、学力低下の問題から「総 合学習」のありかたについて議論が出てきたこともあり発表が遅れていますが、いずれは何らかの形で教科へ進んでいくよ うに思います。(注:この講演時点では、遅くとも2005 年秋には教科化が発表になるという予測が一般的でしたが、その 後、教科化への慎重論が強いこともあり、中央教育審議会では2006 年1 月現在まで慎重な議論が続いているようです)

日本全国の公立小学校で、教科として英語が導入される日が来る可能性があるとして、そうなったときに私学はどうするの か。小学校に限らず、中高についても、場合によっては、公立に行ったほうが英語教育は恵まれているということになりか ねません。

公立学校の試みを見てみますと、本当に驚くような変わりようなのです。SELHi(Super English Language High School)の初年度校が30 校くらいありますけれども、私は、その実践をまとめた冊子を読みました。残念ながら、模擬 授業を行ったり研究発表をしたりする最終の報告会には行きませんでしたけれども、実際の授業を見学したことはあります し、報告書は読みました。

そうしますと「ここまで変わったのか」と、本当に驚くほどです。私の率直な感想ですが、国が本腰を入れると、ここまで 英語教育は変わるのか、ここまで学校現場は変わるのか、という思いを強くしました。

ところが、そのSELHiの指定校で気が付いたことが2つあるのです。1つは、東京都内の学校の採択数が低い。もう1つは、私立の採択数が極めて低い、ということです。この理由は、よく分かりませんが、考えられることが一つあります。

公立の場合には、SELHiを実際に見てみますと、各都道府県の教育委員会が、意欲のありそうな教員がいる高校に声をかけ、申請を奨励したりすることがあるようです。教育委員会の、ある意味での誘導が効いているという場合もある公立に比べ、そういう意が及ばない私立は、SELHi指定は欲しいけれど、研究計画書やら申請書を書いたり、予算を立てたり、担当になった教員は雑務を抱え込んで死にそうになるわけです。

それをやるだけの何かがあるか。何と言うのでしょうか。やりたい人がいたらやれば、と任せておいたら誰もやらないわけで、やはり教育委員会からの誘導、あるいは校長の強い意志など、そういうことで動いていくのが現実のようです。

SELHi校の指定を受けて得る補助金では、様々なことができるのですけれども、例えば、普通だったら買えないような高額の、外国の出版社の良い教科書を生徒に無償で配布する、というようなことも可能になるわけです。

それから、講師料などに補助金を使えるので、研究会を頻繁に行う、英語教育の専門家を各地の大学から招いて研修会を行う、というようなことも出来ます。 ということで、何人も講師を招いて勉強会をすることができるというような恵まれた状況の中で公立が斬新な試みを行っている状況を見るにつけ、私は自分自身が私学で教え、しかもずっと私立で育ってきた人間としては、隔靴掻痒(かっかそうよう)の思いというのが正直なところです。

4.大学での英語

ところで文部科学省は、そういった教育改革の為の支援を、それこそ一貫教育でやっているのです。大学でも同じように、優れた取組を選定して競争的資金を出すことで、努力をさせています。それは具体的にどういう形を取っているかと言うと、大学に対しては研究面を盛んにするために、COE(Center of Excellence)というものがありますけれども、その教育版、Good Practiceというものを設けました。つまり大学の使命は研究だけではない、教育もその重要な柱であるということで、GPは2種類あります。1つは「特色GP」、もう1つは「現代GP」です。

「特色GP」というのはどういうものかと言いますと、「特色ある大学教育支援プログラム」、つまり特色ある優れた取り組みをした大学を支援する、という競争的資金です。各大学がどのような取り組みをして、どのような実績を上げたかという、これまでの実績を問うことで大学教育の改善を推進しようというものなのです。

それこそ全国の大学から応募してくる中から選考して、いくつかの大学を選んで、そこに重点的に補助金を出します。ですから、今までのように各大学にまんべんなく補助金を出すというのではなく、努力するところに手厚くする、自助努力を問うと、はっきりと政策を転換しています。

もう1つ、「現代GP」というものがございます。これは、なぜ「現代GP」と呼ばれているかと言いますと、「現代的教育ニーズ取組支援プログラム」ということで、各種審議会で強く必要性が出されたテーマを選び、そのテーマについて、各大学がどのような取り組みをしようとしているかを審査する。これは、取り組みの計画を審査して、成果が出ると判断された大学に競争的資金を与えるというものです。

この中には、例えば地域連携、あるいは産学連携というようなテーマもあるのですが、その中の1つに、「仕事で英語が使える日本人の育成」というテーマがあります。

これは、先ほどの『「英語が使える日本人」を育成するための戦略構想』の話をしたときに、大学に対しては、特に数値での到達目標はない代わりに「仕事で英語が使える日本人」を育成する、その方策については各大学が考えるように、ということで課題を与えられた、と申し上げました。今度は、さて、いかがですか、各大学はどのような人材教育をお考えでしょうか、具体的な取組は何ですか?ということで公募するわけです。

この「現代GP」は、昨年度から始まりました。昨年が初年度で、「仕事で英語が使える日本人の育成」だけでも70校を越える日本全国からの国公私立大学・短大が申請しまして、そのうち採択になった取り組みの1つが立教大学のものです。内容は、「バイリンガル・ビジネスパーソンの育成をめざす多層的イマージョン教育」です。

これは、外国で研究されているイマージョン教育を参考に、立教に合わせて構想を練ったものなのですが、こちらにいらっしゃっています、バトラー後藤先生の論文も参考にさせていただきました。われわれの考えとしては、いきなり英語で授業をする、最初からのイマージョンではなく、段階を経て少しずつ慣らしていって、最終的には英語でビジネスの仕事ができる人材を送り出す、ということで、「多層的イマージョン」のカリキュラムを工夫しました。この「現代GP」に採択になったプログラムが大枠そのまま、2006年度開設の経営学部国際経営学科のカリキュラムになります。

4年間の取組プログラムということで数千万円の補助金を獲得し、それで国際経営学科のカリキュラムを、現在、開発中です。

そういうことで、外国の大学でイマージョン教育を実施している大学に視察に行くとか、日本では秋田の国際教養大学が、英語での専門授業をやっているということで視察に行く。その視察費用も補助金でまかなえるということなのですけれども、この現代GP補助金をフルに活用して、これまでにないような新しい英語教育を立教経営学部で作ろうとしているわけです。

5.英語が使える日本人の育成

ということで、これが今、われわれが置かれている日本という国での英語をめぐる社会的状況で、私学は特に非常に厳しい環境にあると言わざるを得ないということがお分かりいただけたと思います。 このような中で、われわれは<仕事で英語を使える>、あるいは<英語が使える日本人を育成する>ということを目標にして何かをやらざるを得ない。今、それに背を向けていると学生が集まらない、生徒が来ない、見放されるということになりかねません。

なぜなら、最初にお話したように、この文部科学省の政策というのは、ある日、突然出てきたことではなく、この10年、あるいは15年、20年くらいかけて一般大衆が徐々に社会を動かしてきた成果とも言えるわけです。つまり、これは一般大衆の気持ちの表れということです。 そうすると、それに対してそっぽを向く、あるいは背を向けるということは、私学としてはなかなかしにくい。賛成するかしないかは別問題として、無視し得ないことだということが言えると思います。 ただ、ここで私は、では一体、<英語が使える日本人>というのは何なのだろう、と問題提起したいと思います。個人的には私は、<英語が使える日本人>という言い方が、あま好きには慣れないのですけれども、しかし、好き嫌いは別として、これが一般の気持ちを代弁しているキャッチフレーズであるということも、よく理解できます。そうすると、<英語が使える日本人>というのは、どういう人間なのだろう。たぶん、われわれが考えなければいけないのは、そこからだろうと思うのです。

そこで私は、その前提として、「コミュニケーション能力とは何か」ということをつらつらと、配布資料2枚に書いてみたわけなのですけれども、項目を12 くらい挙げました。ただ、これを全部ここで説明するつもりはございません。末尾に参考文献一覧を載せておきましたので、文献をご覧になればいくらでもお読みになれますし、すでにご存じのことが多いと思いますので、一つ一つ説明するつもりはないのですけれども、何点か重要な点だけを指摘しておきます。

主要な点の第1ですが、われわれは英語教育専門家です。しかし、一般の人たちが「英語ができる」というときは、「言語能力」と「コミュニケーション能力」を混同していることが多いようです。 つまり、チョムスキー(N. Chomsky)が言うところの「言語能力」(linguistic competence)というものに対して、言語人類学者であるハイムズ(D. Hymes)が異論を唱えたといいますか、それだけでは充分ではないと主張した。人間が言葉を使うということは、「言語についての知識」があればできるということではなく、言葉の使用に関する社会的な、機能的なルール(social and functional rules of language)を知らないとコミュニケーションが出来ない。これをハイムズは「コミュニケーション能力」(communicative competence)」と呼びました。この考えが契機となって、コミュニカティブな外国語教育への模索が始まっていくわけです。

言葉をコミュニケーションに使うには、その言語が使われている社会の中で存在する<言語使用の社会的規則>を知る必要があります。日本語でも、そうです。敬語の使い方などだけでなく、もっと広く深い意味で、日本人が日本の文化や社会の中で培ってきたルールがある。これは暗黙に共通認識として存在するもので、普段は意識されないものです。しかし、そのルールが分かっていないと、本当にコミュニケーションをすることはできません。そこのところが、なかなか一般には理解されていません。

おそらく、英語教育の難しさというのは、ここにあるのです。人間が言葉を使うときに言語知識だけでやっていくことができるのならば、それは比較的簡単で、単語を覚えて、言葉の成り立ち、構文を覚えて、使えばそれですむわけですから、たぶん中高の6年間ばっちりやれば、できるはずなのです。 でも、おそらく一般の方たちが思っているのはそこまでで、だから、中高6年間やったのに使いものにならないと憤慨するわけなのですが、使いものにならないのは当たりまえで、学校の英語教育では言語の知識を与えることはできるけれども、その後については、これを教室で教えたから、みんなができるようになりましたというような、簡単なものではないということが言いたいがために、ハンドアウトで「コミュニケーション能力」に関する項目をこれだけ挙げました。 例えば、Savignon (1983)が言っているのは、「コミュニケーション能力とは相対的であり、会話参加者同士の協調に依拠する」ということです。「“communicative competence is relative, not absolute, and depends on the cooperation of all the participants involved.”」 「コミュニケーション能力」というのは絶対的なものではない。コミュニケーションというのは相対的なものであって、相手がいて自分がいて、その中で相手と自分がどのように協力し合いながら話を進めていくかというのがコミュニケーションです。別の表現では、”negotiation of meaning”という言葉もあります。どのようにお互いが交渉して、意味を作りあげていくかということです。そうなると、とてもではないけれどもTOEFLやTOEICで、そのような能力が測れますか?という話にもなるわけです。

去年、木村松雄先生が青山学院の実践をお話し下さいましたが、その際に、青山学院が一貫連携を、どのような理論の元に進めているかという理論的根拠として出されたのが、ジム・カミンズ(Cummins, 1979, 1980)の、CALP (cognitive/academic language proficiency) とBICS (basic interpersonal communicative skills)という考え方でした。これも大きく参考になる部分です。 これはバトラー後藤先生のご著書にも詳しく出ていますけれども、いわゆる日常的な対人コミュニケーションに使うような会話能力(BICS)というのは、子どもの場合は比較的早く身につけることができます。 しかし、毎日毎日、学校に通っていて第二言語を使用していても、いわゆる認知的な、あるいはアカデミックな言語能力(CALP)を身につけるためには、これは研究によって若干、数字は違いますけれども、5年、6年、7年と長い年月がかかり、それでもネイティブ・スピーカーと完全に同じというわけにはいかない、という結果です。それを踏まえて青山学院では既に、どのようにこれを一貫連携に応用するか、研究が行われているそうです。

それから、コミュニケーション能力の4要素というのは、よく知られているもので、文法能力(grammatical)、談話能力 (discourse)、社会言語学的能力(sociolinguistic)と方略的能力(strategic)とあります(Canale & Swain,1980; Canale,1983)。これについては後で触れますけれども、「文法能力」と言うと非常に誤解を生みやすいのですが、これはもっと広く、いわゆる<言語的な知識>です。ですから、この中には、もちろん文章の組み立てである構文の知識も入りますけれども、語彙(ごい)力も入りますし、発音やイントネーションなどの音声も入ります。つまり、その言語を成り立たせている知識というものが基本にない限り、何も始まらないということです。それが「文法能力 (grammatical competence)」です。

それから “discourse”というものも分かりにくいのですが、「談話能力」と訳してしまうと単なる「会話能力」のようなイメージに誤解されがちですので、あえて「デイスコース」と言ったりします。話し言葉だけではなくて書き言葉も含め、センテンス単位以上のまとまった言語を「ディスコース」と呼びます。「ディスコース能力」とは、<結束性>と<一貫性>を持った論理的な「ディスコース」をいかに組み立てることができるかということで、これも実は大変に難しいものなのです。

次は、社会言語学的能力です。言葉をどのように適切に使うことができるか。文法的には正しくても、実際に使うと失礼にあたる、というような例は日本語でもありますし、英語でもあります。そのようなことを知った上で言葉を使える能力のことを、「社会言語学的能力」と呼んでいます。

最後に「方略的能力」というのは、例えば聞き取れなかったときにどうするのか。自分の言ったことが相手に誤解されてしまったら、どのように修復するか、という類のストラテジーに関する能力を指しています。 これは、「コミュニケーション能力」というハイムズが出した概念を非常に分かりやすく具体的に説明したもので頻繁に引用されています。その後、1990 年にバックマン(Lyle Bachman)がもっと精緻なモデルを提示しました。このバックマンのモデルというのは、コミュニケーション能力のテスト評価という視点から作られたもので、なかなか面白いのですが、詳細なだけに説明に時間がかかりますので、できれば文献をお読みになっていただきたいと思います。

その他にもいろいろあります。例えば、マイケル・ハリデー(Michael Halliday, 1973)という人は、言語を「機能」という観点から研究し、大きな影響を与えています。 あるいは、オースティン(Austin, 1962)とサール(Searl, 1969)による「発話行為」理論(Speech Act Theory)では、人間が発話をするときに、表面上の言葉の中に含まれる発話意図、こういうことを言わんとしている、ということを理論化しています。

日本語は特に表と裏、本音と建て前があって、本音は表に出ないということを言いますけれど、実は、これは日本語だけの特殊現象ではなくて、言葉というものには、少なからずそういう要素があるわけです。誰かがあることを言う、でも実は、その中に自分はこうしてほしいという依頼が入っているかもしれないし、命令が入っているかもしれない、という発話行為に関する分析は、第二言語習得理論に大きな影響を与えています。

最近は、語用論という研究分野も注目を浴びています。従来の言語学は言語を構造としてとらえて、どのような成りたちで言語ができあがっているかということに着目していたのですが、そうではなくて、その言語が実際に使われる場に着目して、行為としての言語を分析するというのが語用論(pragmatics)です。そこからコミュニケーション現象を見ると非常に面白い世界が見えてきます。今まで、見えてこなかったことが見えてくるのです。(例えばKasper,1998; Scollon & Scollon,1995)

そういう意味で、例えば「会話の協調原則」(Grice, 1967) というようなものも、参考になります。これは、会話というのは、会話に参加している者同士の、協力し合おうという暗黙の了解の元に成立しているという考えで、それを基本に、発言の「含意」であるとか皮肉などを読み取ることが可能になります。

そういうような新たな知見を言語教育研究に応用する試みが少しずつ始まっています。どこでやっているかというと、たぶん一番熱心に取り組んでいるのは立教の異文化コミュニケーション研究科ではないかと自負しております。 それから最近、新しい考え方として出てきていることがあります。英語だけではなく外国語すべてに関わるのですけれども、外国語を教えることはなかなかうまくいかないというのが日本だけではなく、世界共通の悩みなのです。

学校で外国語を教えても、成功したという話は、なかなか聞かないのです。こうやってみたら、学習者は皆、驚くほどにできるようになって、学校を出た生徒や学生が社会に出て目も覚めるような流暢さで言葉を駆使している、などという結果は余り聞きません。無論、少数の外国語学習成功者はいますが、どこの国も、どこの学校でも、悩みを抱えているのが実情でしょう。

そこで出てきたのが、やはり言葉を言葉としてだけ教えようとしても、なかなかうまくいかない、という反省です。例えば文化的、社会的な要素、あるいは学習者のアイデンティティの問題を置き去りにしていては、外国語教育は進まないのではないかということです。

そもそも「コミュニカティブ・アプローチ」という教授法自体が、欧米の価値観に基づいた教授法です。だからアジアの国でいきなりやろうとしても、なかなかうまくいかないのではないか、という反省も出てきています。 例えば、その中で具体例を挙げると、「学習者中心」という理念が、「コミュニカティブ・アプローチ」の実践面での重要な要素なのですけれども、これが案外難しい。教師が一方的にしゃべってはいけない、もっと学習者に発言させて、学習者の主体性を尊重する、というのが「コミュニカティブ・アプローチ」の基本です。ところが、日本のみならず、ベトナム、タイ、中国など、アジアでは余り定着していないようです。そういうところの<教室文化>というものを分析してみると、教師に対するある種の期待というものが学習者にあって、教師からの指導がないまま、いきなり「あなたはどう思いますか?」と質問されても困ってしまう、ということがあるようです。「いや、それを習いに、今ここに来ているわけで、先生はそれを教えてくれるのが仕事じゃないの?」という、教師の役割についてのイメージというものがありますから、欧米式の教室文化を持ち込んで、「生徒のあなたと教師の私に上下はありません。教室では学習者のあなたが主役です。教師はファシリテーターです」と言われても、ピンとこない。現実的にうまく機能しないということになりかねません。

ということは、その国の文化というものを無視しては、外国語教育の成果は望めないのではないかということで、外国語教育における文化的な要素、あるいは教師と生徒との権力構造というところに着目した関係性のあり方、あるいは学習者自身のアイデンティティの問題などへ関心が生まれてきています。 これらの問題がなぜ重要かと言うと、モチベーションと非常に密接につながってくるのです。動機付けをすれば学習者が学習するというのは当たりまえの話なのですけれども、どうやって学習者を動機づけるかが問題です。動機付けについては、多くの研究や試みが行われていますけれども、「こうやれば、ああなる」と、それほど単純に因果関係は出ないのです。

もちろん、先生である皆さんはそれをよくご存じでしょうけれども、生徒というのは本当にやっかいなもので、教師が熱心にやったから、明日すぐに成果が出るかというと全然そんなことはなくて、脱線した雑談の方を1カ月後にもよく覚えていたり、「こうしてはいけない」と注意したことのほうが強く頭に入ってしまったりと、なかなかうまくいきません。モチベーションをつけるのが大事だと分かっていても、どのようにしたら動機付けすることができるのかというのは、そんなに簡単ではありません。 そこには、やはり学習者の個人差もあるでしょうし、アイデンティティというものが深く関わってくるのではないか、ということで、今度は学習者に着目してみたいと思います。学習者そのものを分析する研究は多く出てきていると思いますけれど、しかし、まだまだ充分ではないように思います。

配布資料に、「外国語学習者観の変遷」と書きましたけれども、この<変遷>という言葉は正確ではないかもしれません。変遷と言うと、ひとつのことがあり、それが終わって次へという感じですが、「外国語学習者観」は、そうではなく、同時進行的に併存していると言っていいかもしれません。昔からあって、未だに続いているのは「コンピューター的学習者観」。学習者はコンピューターのようであって、インプットされた情報を処理する人間として扱われます。これは、言語心理学的な言語習得論を基礎にした考えとも言えます。 つまり、こういうインプットを入れたら生徒は学んで話せるようになるだろう、この単語を教えたから、明日、小テストをしてきちんと書けるようになっているかどうかを確かめ、先に進んでいきます。インプットとして例文を与え、ロールプレイというアウトプットをさせる。インプットされた情報をうまく処理するのが学習者である、という学習者観です。

次に出てきた考え方は、「学習者は、社会での見習い」という学習者観です。学習者というのは、社会の中で自らが主体的に学んでいく存在で、何かをする為の道具としての言語を社会から学んでいる人間、言ってみればapprentice、見習いみたいな存在なのだという考え方です。これは、言語人類学的な言語社会化論に依拠した考えで、学習をsocialization、社会化の一環とみる言語習得観です。

古来、人間は何かをするために言葉を学ぶ。つまり言葉は道具であって、だから赤ちゃんは、親が話している様子を見ながらだんだん覚えていって、社会的に成長していくに従って適切な使い方も社会から学んでいきます。親から学んだり、親戚から学んだり、近所の人たち、あるいは学校に通ったら学校の先生、そして友達、そのように広く社会という中で育っていきながら言葉を習得していきます。だから、外国語学習もそれを考慮に入れるべきであるということです。例えばヴィゴツキー(Vygotsky)というロシアの学者がいますけれど、「社会文化理論」というヴィゴツキーの理論は外国語教育にも応用されています。

さらに最近、もう1つ違う見方が出てきています。それは、「生態学的学習者観」、エコロジカルな学習者観です。言語使用者と環境とのダイナミックな関係に着目し、身体論として言語習得を考えます。 人間というのは、自分を取り巻く環境から切り離しては考えられない、ということが基本にある考えです。「環境」と言っても色々あります。自分が育った家庭環境もあるし、周りの自然ということもあるかもしれないし、都会で育った人間の言語観と、山里離れたところで暮らしている人の言語観が違うかもしれない、ということもあるかもしれません。つまり言語使用者と環境との有機的なダイナミックな関係の中で、言語習得が行われる、という考え方です。

言語教育と直接関係はありませんけれども、言語教育にもかなり影響を及ぼしている、竹内敏晴さんという演出家がおられます。この方が、例えばメルロ・ポンティの解釈学に基づいた身体論、これに基づいた演劇理論を展開していて、それを日本の学校教育に応用したいと、全国各地の学校に出かけて行ってワークショップを行っています。

異文化コミュニケーション研究科でも、2年ほど前に合宿してのワークショップにおいでいただいて、言葉を発する、言葉を伝えるというのはどういうことなのかというのを、参加者全員が床の上に裸足になって座って、身体で覚えるというワークショップをしたことがあります。つまり、言語を身体から切り離して考えることはできないということです。斉藤孝さんの「声に出して読む」という身体論も、この一環と考えることができるかもしれません。 これは、一理あるのです。それを理論的に解明するのは難しいのですけれど、例えば、単語を覚えようとするときに、いくら眺めていても覚えません。しかし、声に出して言って見る、あるいは書いてみる、そうすると定着度が深まるというのは、たぶん実践的に誰もが感じていることではないかと思います。それも、身体論から考えてみると面白いと思います。

このような、学習者の環境に着目したエコロジカルな言語教育という考え方がどこから出てきたかというと、ひとつは、グローバリゼーションと多文化社会がもたらした影響と言って良いかもしれません。学習にあたっての「文化的コンテクスト」の重要性が認識され、文化的なコンテクストを抜きにした外国語学習というのはあり得ないという主張です。 それからもう1つは、知識だけを学ぼうとするのではなくて、言葉というものはinteractiveに使って体験をすることによって学習していくものである、という考えです。知識習得からインターアクティブな体験学習への動きと言えます。

さらに、もう1点。外国語学習は、究極的には異文化コミュニケーションが目的であるということを考えると、やはり柔軟な対応性のような資質が必要です。異文化対応を可能にする柔軟性が、外国語教育でも追求されてきています。

ということで、われわれはそういうさまざまな流れを理解しながら、立教学院の中での一貫連携を考えていかなければいけないという、大変な重い荷を背負っているわけです。青山学院は、青山スタンダードということで語彙に絞って、小学校ではこれを何語、中学校ではこういう語彙を何語、ということを具体化しており、これも1つの考え方でしょう。けれども、立教の場合は少し視点を変えて、例え時間がかかっても幅広いところから考えられないだろうか、と思います。 その前提として、あえて前置きのお話を長くいたしましたが、次に立教の中で大学ではこれをどのように行っているか、どのようなスタンスで英語教育を行っているか、というお話をさせていただきたいと思います。

6.立教大学での試み

立教大学では、1997年から、ご承知のように抜本的に英語教育を変えました。それまでのいわゆる一般教育部に英語教育を委ねて、文学を専門とする先生方を中心に伝統的な授業をやっていた英語教育を一新して、ほとんど革命と言って良いほどの、大変な痛みと苦しみを経て、1997年度に全学共通カリキュラムとしての英語教育を始めたわけです。

目的は、異文化理解と発信型コミュニケーションです。異文化をどのように理解して、どのように異文化を背景にした人たちとコミュニケーションを取るかということが目的の英語教育、と位置付けました。 実施方法はどういうものかというと、統一カリキュラムです。統一テキストによる全学共通スタンダードの英語カリキュラム、いわばグローバル・スタンダードを大学の中で行っています。立教大学のどの学部に学生が入学しても、同じレベルの同じ内容の英語教育を受けることができる、というのが<全学共通カリキュラム>です。

グローバル・スタンダードを作ろうと思ったら、やはりテキストは統一して、そして、シラバスも統一するしかないのです。これは、大学教員にとっては非常に辛いものです。誰も自分の授業は自分の考えてやりたい。しばられたくはありません。そういう中で、統一シラバス、統一テキストによる全学共通カリキュラムを実現するためには、FD(faculty development)、つまり教員研修をきめ細かく行っていくしかありません。

カリキュラム内容は、基本的にEnglish for General Purposes。どの専門分野と限らない、一般的な使用を目的とした英語です。2006年からは2学部増えますが、これまでの立教大学は池袋に5学部、新座に2学部ありまして、それぞれ専門分野が違います。理学部から文学部にいたるまで、専門分野が違う学部に対応するために、いわゆる一般的な英語をベースに、アカデミックな英語(English for Academic Purposes)を教授します。つまり、専門課程に進んだときに、英語の文献が読めて、英語でディスカッションができ、留学しても臆せず発表ができる、ということを目指して、言ってみればEnglish for General PurposesとEnglish for Academic Purposesがカリキュラムの中心です。その中で、2年次以上の上級者に対しては、content-based teachingの一種である「テーマ別の内容重視の英語教育」を導入しました。

これが2005年度までの立教大学の英語教育です。2006年度からは、これに新しい要素が加わります。これまでは、全学共通スタンダードだったのですが、そこに少し学部としての個性が加わりまして、いわゆるグローバリゼーションが進むと、逆にローカリゼーションが活発になるという考えに近いかもしれません。

先ほどお話しましたように、「現代GP」に採択になった英語カリキュラムを、そっくり学部の英語教育として採用したのが、経営学部国際経営学科における「バイリンガル・ビジネスパーソンの育成をめざす多層的イマージョン教育」です。 実は全カリの英語を始めた頃から、1つの夢としてこういうものをやってみたいと思ったのですけれども、立教のような規模の大学になりますと、1学年に入学してくる学生が3千名にもなります。英語の展開コマ数が年間900コマを超えるという、そういう大きな規模の英語教育では、とてもできないことでした。 しかし経営学部では、英語で専門の授業をすることができないだろうか、ということでしたので、それを実現する方策として、content-based teachingを応用し、最初から全部英語ではなく、少しずつ英語を増やしていく、という「多層的イマージョン教育」のアイデイアが生まれたわけです。

国際経営学科の英語カリキュラムは、目的はバイリンガル・ビジネスパーソンの育成です。英語だけができればいいとは、われわれは思っていません。日本語力も充分に備え、きちんとした専門知識を学び、その上で英語力も身につけたバイリンガルな人材を送り出したい、ということです。 実施方法は、今、申し上げましたように、段階的なイマージョン教育です。1年生から全部を英語での授業というのではなく、1年次はEAP(English for Academic Purposes)の授業と、全カリの英語教育を組み合わせて行います。 2年次から “adjunct”という方法の授業を取り入れ、3年次に”sheltered”、そして “mainstream”というふうに段階的に発展させ、留学プログラムも組み込み、海外では当然、英語で授業を受けてもらいます。 ですから、1年次は全カリの一般的な英語教育(English for General Purposes)に併せて、アカデミックな英語(English for Academic Purposes)を1年次に少し導入して、全カリの英語教育は週4コマですけれども、国際経営学科の学生は1年次から5コマ履修することになります。

そして2年次には、EAPを徹底的に学習した上で、今度はEnglish for Specific Purposes(ESP)が入ります。これは経営学の専門用語、あるいは経営学の専門に特化した英語を教えるということになります。 ということで、 “adjunct”というのは耳慣れない用語でしょうが、要するに英語の教員と専門の教員が協力する、広義のティームティーチングという考えです。実際に教室でティームティーチングするわけではなく、学生が専門の授業を英語で聞いたときに充分に理解し質問や発表などができるように英語教員と専門教員が協力をする、ということで、その具体的な方法については現在、検討を始めているところです。

現代GPに採択になり、審査員からのコメントがありましたけれど、「コンセプト自体、非常に素晴らしいものだが、特にadjunctと言われる部分は学内での協力が不可欠で実施に苦労を伴うものと思われる、どのようにするのか成果をみたい、これが成功したら、日本の大学英語教育の非常にいい参考になるだろう」いう趣旨のコメントがありました。つまり、専門教員と英語教員のコラボレーションというのは、現実には難しい部分がありますので、これが成功したら、立教大学は各大学に先駆けて、ある1つのモデルを提示することができるだろうと思っています。ここまでが、立教大学における英語教育の現状と、 2006年度からの新たな試みについてのお話です。

7.立教の一貫連携教育

さて今度は、一貫連携についてです。残りの10分くらいで、これはたぶん、私としては皆さんに問題提起をするしかできないのではないかと思いますが、私なりの考えをたたき台としてお話してみます。

まず立教は、キリスト教の学校であるということ。これはもう最初から一貫しているわけです。この部分は、学院内の学校のみならず、立教女学院、香蘭女学校という系列の学校も同じです。 これは、重要な要素だろうと思っています。なぜかと申しますと、今日は駆け足で、コミュニケーションの諸相をお話しましたけれども、コミュニケーションというのは、つまるところ人間の営みなのです。コミュニケーションは、人間と切り離して教える技術では、決してありません。それを考えると、「コミュニケーションに使える英語を教える」という、そのこと自体が、すぐれて全人的な教育にほかなりません。

コミュニケーションを考えるということは、自分があって相手がいる、自分とは異なる他者との関係をどう構築していくか、それを言葉を使って行う、ということにほかならないのです。 キリスト教にはいろいろな教えがありますが、その中で、例えば「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という聖句があります。これは、自分を愛するようにあなたの隣人も愛しなさい、ということで、自分はどうでもいいとは言っていません。
自分も愛する、でも、他者がいる。その他者も自分と同じように尊重するという、そういう関係性の在り方というのは、キリスト教の理念と無縁ではないということから出発すれば、コミュニケーションの基本的理念は、学院内の各校で一貫するのではないでしょうか。

中高の現場のお話は、これから、みなさんからお伺いしたいと思いますけれども、例えば立教小学校で実施しているETM(Education Through Music)です。私も授業を見学したことがありますけれども、ETMというのは、音楽を通した全人的な教育である、と私は理解しました。使われる言葉は英語を使っています。でも、それで英語を教えようというのではなくて、むしろ私が拝見した限りでは、子どもたちが他の子どもたちとどのように関わり合いながら、いろいろなアクティビティをしていくか、それを音楽と英語でつないでいくということです。

小学校では、そのような全人的な教育を実施しています。それでは、中学校で何をしたらいいか、高校でどうしたらいいかということです。そして大学では、英語教育の目的は異文化対応を可能にするコミュニケーション能力です。これは、異文化にぶつかったときに、どういうふうにしなさいというノウハウを教えるのではなくて、異文化と接触したときに起こるであろう、葛藤なり、摩擦なりを、どのように言語を使って乗り越えていくか、ということで英語の教育を考えています。少なくとも私自身は、そのように英語教育を考えています。

大学院レベルで、異文化コミュニケーション研究科が何を研究・教育の軸にしているかというと、「持続可能な未来へ向けての異文化コミュニケーション学の構築」ということを考えています。(注:異文化コミュニケーション研究科は、このテーマで2005年度文部科学省「魅力ある大学院イニシアティブ」大学院 GPに採択となりました) この<持続可能な未来>というコンセプトはどこから出てきたかと言いますと、ユネスコが持続可能な未来、持続可能な社会についての提言を行っています。そのユネスコが刊行した『持続可能な未来への指導と学習』という教材を、異文化コミュニケーション研究科で環境領域と通訳翻訳領域の教員と院生が協力して日本語に翻訳したのです。それで訳しているうちに、<持続可能な社会><持続可能な未来>というものが、いかに幅広い理念であるかということを初めて知りました。

環境問題だけではなくて、政治経済はもとより、ジェンダーの問題も入ってくるし、貧富の問題、識字教育の問題、人種差別、民族、宗教の問題、観光まで、ありとあらゆる人間の問題が包括されているのですが、1つ欠けていると思ったのが<コミュニケーション>という視点です。

ここに異文化コミュニケーション研修科の存在意義があると考え、それを異文化コミュニケーション研究科の理念の柱にしたところなのですけれども、例えば、そのようなことで何か中学高校の教育理念があるとすると、理念の面から1本に繋げていくことが可能なのではないかと思います。

具体的方法になると、非常に難しいのですけれども、これは、やはりワーキンググループのようなところで頻繁に議論を重ねていくところから始まると思います。一番難しいのは、各段階の接続のところです。小学校のETMで非常に優れた全人的な教育を英語で行っていたとします。でも、中学校に行ったときに、それが生きるのか生きないのか、その接続の問題です。

私は、小学校では、やはり全人的な教育が基盤だろうと思います。そこには当然ながら母語教育も入ってきます。コミュニケーションに使える英語教育を考えたときに、母語能力抜きには考えられない、母語は思想の根幹をなすものですから、豊かな母語がなかったら、外国語をきちんと話せるわけがない、という思いがあります。英語教育を語ることは、すなわち母語教育を語ることである。だから、小学校の段階で、もっと国語との連携、横の連携があってしかるべきだと思っています。 大学生を見ていても、英語ができない学生は、やはり母語である日本語が貧しい。小学校での母語教育というもの、私はあえて国語と言わないのですけれども、母語としての日本語教育が重要であるということは指摘しておきたいと思います。 そして小学校で英語を教えるなら、英語の音とリズムの基本と、言葉を通しての対人関係構築能力の基礎を作っていくことではないかと思います。

子どもにとっては、「こうしなさい」と教えることは、本当は余り意味がない。大切なのは、日常的な体験をとおして、いろいろな失敗を繰り返しながら子どもたち自身が学んでいくこと。それが小学校の使命ではないだろうかと思います。 そうすることで、異質なものに対して、拒否感ではなく、開かれた心というものが培われていくと、中学校で外国語を学んだときに受け入れやすいのではないかと思います。
非常に漠然とした言い方ですけれども、異質なものに心が閉ざされている時に英語を教えようとしても、それは無理なように感じます。一貫連携の出発点という意味で、小学校教育は非常に重要な部分だと思っています。

中学というのは、英語という言語の知識を学習する導入期という意味で肝心なのですけれども、文部科学省はいままで何故か冷淡でした。中学校という時期は本来なら、授業時間数を増やして、1クラスの人数を減らすということだけでも、相当に効果をあげることが可能なはずなのですけれども、これが公立ではできていません。これを指摘すると文部科学省は露骨にいやな顔をしますが、それは多分、予算の問題、時間的な制限の中で他教科との兼ね合い、という問題なのでしょう。要するに、小さなパイを奪い合っているようなものですから。このあたりはむしろ、私学のほうが融通はきくのかもしれませんから、思い切ったことができるとすると私学だろうと期待しています。
中学になると、そろそろ<自己>と<他者>という認識が出てくるでしょうから、それを踏まえた上での自己表現が必要になります。相手を無視して自分だけを表現するのではなく、他者を理解しようと努力する。しかし、我慢して黙って相手に合わせてしまうのではなく、自分の言いたいことをどのように発信するか、ということです。
それは中学でやっておかないと、大学生になるとなかなか難しい。「はい、言いたいことを言ってみましょう」と言われても、そういう訓練を経ていないと、自分が何を言いたいかが分からないことさえあります。
英語の授業を聞いて理解をすることはできるけれども、その授業について批判的考察を加える、いわんや、その批判的考察を言葉にのせて発表するということは、とても無理ということになりますので、そのあたりを少しずつ中学から導入できないだろうかと思います。もちろん、中学は基礎レベルですから、英語の構文、語彙、音というものの基礎づくりの段階、土台作りとして重要な時期です。

高校になると、その基礎に基づき、ディスコース能力の学習が入っているわけで、なぜここでand ではなくbutと言うのか、なぜここでbecauseと言うのか、これはすべて<結束性>や<一貫性>に関わってくることなのです。文法用語は使わなくても、文章の連結の仕方として、教えることができます。
最近になって海外の研究者が熱心に取り組んでいるのが、文法事項をいつ、どのように取り入れるか、という “Focus on Form” です。コミュニカティブ・アプローチの弱点は、何でもいいから喋ればいいということで、流暢さを重視し過ぎた結果として正確性が犠牲になることです。まず、喋ればいいと言っても、寄って立つ基盤がないと喋れません。そして、文法的に間違った英語を喋ると、通じなかったり誤解されたりする場合もあるわけで、そうすると結局、コミュニケーションになりません。そこをどうしたらいいのか。コミュニカティブ・アプローチの長所を生かしながら、しかし、 Focus on Formも必要ではないか。ある時点でどのように「形式」に焦点を合わせるか。文法を教えることが悪いのではない。文法知識は必要だ。しかし、導入の方法と教え方に工夫を要する、ということなのです。

現在の日本の英語教育の問題は、振り子が揺れすぎてしまって、使える英語が大事なのだ、文法を教えるから駄目なのだ、ということで、文法を教えることがいけないことのようになっている。文法を教えずに会話だけ教えてどうなる、と思いつつ、世の中の流れでは、文法を教えることが何か悪いことのような、そんな雰囲気が現場にできつつある。もちろん、そこまで行っていないどころか、いまだに昔ながらの文法を教えている場合もあるようですが、それは10年くらい遅れている。公立の進んだ所では、いまや振り子の行き過ぎが、反省事項となっています。

問題は、コミュニケーションという目的を考えた上で、どのように文法事項をうまく取り入れるか、です。生徒たちに、英語を使ってコミュニケーションするためにこれが必要なのだということを理解させながら、そして実際に英語を使わせながら、interactionをしながら、文法などの形式も適宜、導入する。これが、これからの英語教員の腕の見せどころになってくるような気がします。

そうしておいて今度は高校から大学ですけれども、高校時代というのは、認知的な、アカデミックな英語の導入を始めるチャンスです。大学に入ってからでは、いささか遅い。きちんとした英語を聞いて話す為には、英語で読む、英語で書くという力を培っておくことが先決です。
高校段階でまだ挨拶をやっているというようなことでは仕方がない。もっとも挨拶だって、良く考えると難しい場合があるのですけれども、英語での挨拶というと、普通は、決まり文句を教えることに終始しているようですから、そんなものは早い段階で済ませておけば良い。むしろ高校から大学にかけては、自分の考えをどのようにまとめて、相手が分かるように表現するかということが中心になるべきでしょう。それこそ、ディスコース能力が必須になります。
例えば書くことによって自分の考えを整理するという訓練もできますし、そのうえで話すということに結び付けることもできます。ですから、高校から大学へという段階では、ディスコース能力を少しずつ付けていく。そして大学へつなげていく。高校は、アカデミック英語を大学で発展させるための準備段階と位置づけることができないだろうかと考えています。

大学に入りますと、今度は専門科目の学習が入ってきます。今の大学は、一昔前と違って、専門の授業が前倒しで1年次から少しずつ始まっているのです。概論という形で始まっていたり、また基礎ゼミという形で、1年次から少しずつ専門性を付けさせていく。専門性のある教養人か、教養のある専門人かというようなことで、つまり、両方身に付けさせようとしているわけです。
ということは、大学に入った段階で、英語で何をするか、ということを考えなければなりません。英語「を」学ぶことは、高校までですでにやってきているはずで、大学に入った段階では、英語「で」何を学ぶかです。例えば経営学部に入りました、英語で経営学を学んで、将来はどういう人間になって、何をしましょうかという話になるわけです。

経営学部では、1年次から基礎ゼミがあり、導入期教育が始まります。2年次くらいからインターンシップ、これは国内、海外両方ですけれども、つまり企業に出して学ばせる。それから、国際的な企業で実際に活躍している人をすでに教員として採用もしていますし、実際に活躍している人たちを、「企業人セミナー」という形で毎週呼んで、実際の話を聞いて、それをどう自分の大学での勉強に結び付けるかということもやるわけです。
そうなってきますと、実際のビジネスの場においてどのように英語を使うかという観点から英語を学ぶということになります。例えば相手に反論したいけれども、失礼にならないようにするには、どう言うのか、というような社会言語学的知識も必要となってきます。自分の言いたいことを言ったところ、どうやら相手が誤解してしまって、とんちんかんな返事が返ってきた、あるいは、むっとした顔をされてしまった、修復するのにはどうしたらいいか、というような方略的能力も必要になってくる。大学で学ぶ英語というのは、そういうことになってくるのでないか。

最後に、一貫連携を考えるにあたって、ぜひ取り上げていただきたい重要な点として、自立性(autonomy)を挙げたいと思います。
いくら立教で、「そうか、分かった。公立には負けていられない。なんとか予算を投入してコマ数を増やそう」と言ったところで、どんなに増やしてもせいぜい週5コマですよね。大学だって90分授業が週5回あったら、もうそれ以上は無理です。いくら毎日1時間の英語があるからといって、そしてそれが半期13 週、前後期合わせて26週あったところで、そんなものは時間数にしてみれば、たいしたことないと言えます。アメリカの赤ん坊は自然に英語ができるようになるという人がいますが、当たり前の話で、生まれてからだいたい英語が普通にしゃべれる12歳までの間に、何千時間、何万時間費やしていることか。日本人が日本でいくら英語を勉強しても、時間的にはとてもそれに及ばないわけです。
中学校の英語の教科書1冊を英語のペーパーバックのページ数にしたら、10ページ分に満たないくらいになってしまう。そんなことで、英語を自由に話せる人間ができるか。できないのです。どうあがいても無理です。そんなのは幻想に過ぎない。
では、どうするかというと、答えはひとつ。自分で勉強しようとする人間をつくる。自分で勉強しようとする力を付けるしかないのですね。
その為には、自分で勉強しようというモチベーションをどう付けるか。そして意欲のある学習者が自分の力で自ら学んでいくのを、どのように支援するのか。
すべてお仕着せ、あるいはすべて何でも与えてあげますよという感じで「はい、おいしいものは全部あげるから、栄養にしなさいね」ではなくて、「おいしいものがどこにあるか教えてあげるから、自分で探しておいで」という教育です。教えることもさることながら、むしろ生徒たち、学生たちが自ら学ぼうとする、その自律性を育て、応援する。

立教の生徒、学生を見ると、かなり恵まれた環境に育ってきているということがいえると思います。あがいて何かをしようとしなくても、環境が温かく包んでくれるというような。それは決して悪いことではなくて、そのことがどれだけ人間的な温かさを生んでいるかということを、立教育ちの学生を見ていてよく感じます。それは、おっとりしている、あるいはのんびりしているという言われ方をすることがあるのですけれども、それは、むしろ他者に対する温かさとなって表れる長所だと、私は思っています。

ただ、その長所をどうやって自立性に結び付けていくかということを一貫連携の中で考えていかれないだろうか、と思っています。温かさを生かしながら、英語教育を通して自立した人間をどう育てていくか。
(講演終了)

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